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聖パトリック教会1957年伝道開始
2007年3月18日発行 第181号
牧師 司祭 ミカエル 加藤俊彦
1991年4月から2年半にわたり聖マーガレット教会の副牧師館に住んでいました。この期間を通して今でもよく覚えてい
る出来事があります。ある日の夜、教会の玄関に一人の男性が入ってこられました。応対に出るとタクシーで教会を訪
ねてきたのだけれどもお金がないから貸してくださいということでした。外に出ると確かにタクシーが扉を開けて待ってい
ました。運転手さんにお金を払い一件落着しましたが、その男性は必ずお金を返しますからと言って姿を消してしまい
ました。教会にお金を借りにくる方には、それまでも何度か出会ったことがありますが、このような体験は初めてでし
た。大体は、どこそこの駅まで行くために貸してください、あるいは故郷に帰ることができれば必ず返すことができるの
でそこまでの運賃を貸してくださいと、出来事を起こす前にお金を借りに来るのですが、既成事実を作った上で借りにき
た方は初めてでした。
教会にお金や食べ物や寝床を求めて訪ねてくる方に私は今まで何度か出会いました。そのとき、どれだけ大変な生活
をしてきたかを切々と語るのを聞きました。通帳や保険証を提示して身を明かして訴えてくる方もいました。その人たち
と出会うときいつも私の頭に思い浮かぶのはマタイによる福音書の物語です。それは終末の際に人の子が羊と山羊を
分けように人びとを右と左に置き、右側の人たちに対して「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時から
お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇い
ていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれ
たからだ」と語り永遠の命を約束します。逆に左側に置かれた人たちに対しては、わたしがそのように困っていたときに
助けてくれなかったからという理由で永遠の火の中に入れられ罰を受けるという話です。この話を思い出すたびに、教
会に助けを求めて今やってきている目の前の人は、もしかしたらイエス様かもしれないといつも考えてしまいます。だか
ら困っている今のその人の状況を助けないとイエス様は終末のときに私を永遠の火の中に入れてしまうかもしれないと
恐れます。
今まで出会ってきたこのような現実の中で、私は様々に悩み対応してきました。時にお金を貸したこともあり、それが戻
ってきたときもあれば音信不通のままのときもあります。お金は貸すことができないけれども食べ物なら差し上げますと
応じたこともあります。礼拝堂に一週間寝泊りを許し、その後追い出したこともあります。一日限定でしか宿を貸さなか
ったこともあります。門前払いをしたこともあります。これら対応の違いはそれぞれの現実の違い故でもありますが、私
の心の中の揺れが、そのようにさせていると言えます。
これまでの経験を踏まえ今思うことは、牧師には出来事をパターン化して応じようとする危険性が常にあるということで
す。例えば、教会にお金や食べ物や寝床を求めてくる方を十把一からげにして、その人たちにはこのように接するとい
う型を作ってしまうことの危険性です。型にはめて物事に対するのはある意味で楽な方法であり心の揺れは少なくてす
みます。しかし、出来事を見て人を見失ってしまうということに陥りがちになります。聖書に記されている教えと現実との
間で、また互いに愛し合いなさいという掟と人を愛し得ない自分との間で、自分自身が揺れ、葛藤し、悩み、恐れ、悶々
とし、そのような右往左往する自分でも神様に許されていることにすがりつつ祈りの中で判断し行動し、そしてまた自問
自答する姿こそ信仰者なのではないかと思っています。教えを立派に実践できるのが信仰者であると謳う宗教でれば、
私にはついていくことができません。
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