|
聖パトリック教会1957年伝道開始
2007年4月15日発行 第182号
牧師 司祭 ミカエル 加藤俊彦
1993年9月1日付けで管理牧師五十嵐司祭(現九州教区主教)のもと清瀬聖母教会副牧師及び聖フランシス・聖エリザ
ベツ礼拝堂(ハンセン病療養所である多摩全生園内)チャプレンに任命されました。清瀬の教会は私が神学校3年のと
きに内田司祭のもと1年間主日勤務をした経験があったのでなじみがありました。敷地は1500坪もあり、礼拝堂・会館・
牧師館がともにそれぞれ独立家屋にて建てられ、最大30台位止められる駐車場、竹林、雑木林、花壇、庭など大地主
を思わせるような暮らしぶりでした。恐らく教区で最大の敷地を有し、最もやぶ蚊が元気な教会だと思います。
赴任した当初の教会は暗闇にも支配され一寸先も闇という環境でした。その中を足で探りを入れながら牧師館まで辿
り着き、またときにはグチャっと靴の裏に変な感触を覚え、かえるを踏んづけることもありました。主日礼拝は朝7時より
早祷、7時半より聖餐式を行い、その後車で5分のところにある全生園の9時の聖餐式、また戻って10時半より清瀬の
聖餐式、そして月の第1主日は午後2時より逝去者記念聖餐式と聖職者冥利に尽きる生活をしていました。とはいえ新
築前の旧礼拝堂にはタイマー付のストーブがなく朝5時に起きて寝巻きのままストーブをつけにいき、その後床に戻って
1時間ほど寝てから再度礼拝堂に赴いたことは今になっては良い思い出です。また雪が降った日には一面銀世界の素
晴らしい景色に感動しつつも礼拝堂から通りまでの遠い距離、雪をかいて道を開くのが一苦労でした。
清瀬の牧師は必然的に全生園のチャプレンに任命されていたので、聖職者が日曜学校に関わることが難しい状況でし
た。そのこともあってか、赤ちゃんや子どものいる信徒は聖餐式に出席する傾向があり、礼拝堂の後方の赤いジュ―タ
ンの上が家族たちの指定席となっていました。子どもたちは礼拝の間中じっとおとなしくしている筈もなく、奇声を上げる
は、あたりを徘徊するは、親にしかられて泣き声をあげるは、それはもう騒然としたものでした。このような光景に信徒
の方々は頭では大人も子どもも一緒に礼拝することが教会のあり方であることを理解し、また教会の将来を考えると子
どもがいることは大切なことと分かってはいました。しかしいざ現実となると、当然のごとく不満が募りました。そして牧
師や親に対して礼拝が終わった直後に「静かに祈る権利もある」と子どものしつけを要求してきたときもありました。こ
のような中で、恐らく親の心の中には様々な思いの葛藤があったことと思います。しかし不思議なことに、それでも親は
聖餐式に子どもを連れて来続けていました。私はというと説教などを通して暗に、また遠まわしに、教会とは、あるいは
礼拝とはということを語ることによって何とか理解を得ようと試みました。子どもたちが次第に成長していくに従って彼ら
に礼拝での役割を与えるようにもなりました。清瀬の教会はいわゆるハイチャーチの教会で毎主日十字架とトーチでプ
ロセッションを組み、香を焚いて礼拝をしていました。従って一番小さい幼稚園の子どもにはボート(香の入った入れ
物)持ち、小学生にはトーチ、十字架、サーバーの奉仕を願いました。しかしその奉仕だけではあきてくる子どももいる
ので、併せて毎月定まった主日には子どもたちにも分かる説教をし続けました。そのようなことを行い続ける中で、次
第に理解も得られるようになり、子どもたちが礼拝にいることがごく自然で普通なことへと変わっていきました。
この出来事は今となっては神様が定めた業としか信じることができません。神様が時宜に適って30代の牧師と同年輩
の親たちと、そして子どもたちを、そのとき備えてくださったから成しえたことだったのだと思います。
|