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大斎節前主日
今週の水曜日は大斎始日、あるいは灰の水曜日と呼ばれている斎日です。そして、その後日曜日を除く40日間にわた
って、この斎日が続きます。この期節が教会の暦でいうところの大斎節です。この期間は慎みの日であり、何事につけ
控えめに過ごす日と言われています。そして、その後、復活日という教会の最大の喜びの日を迎えることになります。
大斎節の過ごし方として昔から節制に励むことが教えられています。節制という意味を辞書で引いてみますと、「食欲や
飲酒・喫煙の量を抑えて、身体を壊さないようにすること」とあります。従って、大斎節の過ごし方としては、例えば甘い
ものを絶つとか、お茶を断つとか、好きなものを絶ち、その分を献金するということが行われてきました。「大斎を制する
ものは一年を制する」と言われるように、このような大斎節の信心業は、今でも大切に守られるべきものであると言えま
す。そこで、今日は、大斎節にこのような節制に心がけることの意味を、福音書を通して改めて見直し、これから迎える
大斎節の備え、またわたしたちが日々送っている信仰生活の原点を再確認したいと思います。
わたしたちの信仰生活は、教会の暦によって支えられ、また秩序付けられているといえます。その暦は昨年の12月の
降臨節から始まりました。そして、降誕節、顕現節と今まで過ごしてきました。降臨節から始まり降誕節、顕現節と過ご
してきた期節の趣旨とは何だったでしょうか?降臨節は神様の独り子が私たちに臨む、つまり私たちのもとに降りてく
るのを待つという期節でした。次に迎えた降誕節は神様の独り子であるイエス様がこの世に降った、つまり神様が救い
主であるイエス様をこの世に誕生させたことを祝う期節でした。そして顕現節はこの世に現れたイエス様が救い主であ
ること、そのことがユダヤのみならず異邦の世界にまで、すなわち全世界にまで顕わにされたことを讃える期節でした。
このように、私たちが今まで過ごしてきた期節というのは、神様が私たちのもとにやって来てくださったということが主眼
になっています。つまり、神様からのわたしたち人類に対する働きかけ、あるいは神様がわたしたち人類に対して恵み
を施してくださったということをテーマとしています。簡単に言えば、神様が人類に対してイエス様というプレゼントを与え
たということ、逆に言えば、わたしたちは神様からイエス様というプレゼントをもらったということが主題となっているとい
うことです。従って、この期節は当然わたしたちにとっては喜びの時であり嬉しい時ということになります。
しかし、今週水曜日に迎える大斎始日を境にして、そのテーマが変わります。つまり、降臨節、降誕節、顕現節と過ごし
てきたわたしたちにとって、大斎始日は一つの転換点となっているということです。今までの期節、わたしたちは、クリス
マスの喜びと嬉しさの中で信仰生活を続けてきたといえます。しかし、大斎始日を転機として、わたしたちは、その信仰
生活の姿勢を変えることが求められます。では、どのように変える必要があるのでしょうか?それを教えているのが今
日の大斎節前主日の福音書と言うことができます。
今日迎えている大斎節前主日の福音書は、A・B・C年ともすべてイエス様の変容貌の話、すなわち山の上でイエス様
の顔が太陽のように輝き、着ていた服が真っ白に光り輝いたという出来事の話が読まれることになっています。三年と
もに同じ内容の話が読まれる主日、すなわち毎年同じ出来事の物語が読まれる日曜日というのは、年間を通してわず
かしかありません。ということは、大斎始日を迎えようとしている大斎節前主日には、どうしても変容貌の話を読む必要
があるということであり、そこには明らかに、ある明確な意図があるということです。
さて、イエス様の生涯を書いた福音書の中で、変容貌の出来事は一つの転換点となっています。変容貌の前に書かれ
ている箇所というのは、イエス様がガリラヤで活動していたときの出来事が書かれています。福音書において変容貌へ
と至るガリラヤでの出来事とは、イエス様が悪霊を追い出したり、様々な病を負っている人々を癒したり、舟の上から風
と波を叱りつけ嵐を鎮めたり、五千人以上の人たちを五つのパンと二匹の魚で満腹にさせたり、湖の上を歩いたりとい
う、いわばイエス様による奇跡がたくさん書かれていました。また、山上の垂訓や今まで人びとが聞いたことのないよう
な教えも書かれていました。弟子たちにしてみれば、ガリラヤでの日々というのは、イエス様が超人的な力を発揮し奇
跡的な出来事を目の当たりにできたり、またファリサイ派の人たちや律法学者たちを言い負かす場面に遭遇できたりと
いう、いわば楽しい時、心地よい時、嬉しい時、爽快な時と言うことができます。それは、丁度、わたしたちが降臨節か
ら今まで、クリスマスの喜びや嬉しさのときを過ごしてきたのと同じです。しかし、この変容貌からあと、イエス様は奇跡
をほとんど行わなくなり、エルサレムへ、そして十字架へと進んでいきます。弟子たちにしてみれば、エルサレムへ、そ
して十字架へと向かうイエス様について行かなければならないという、いわば不安な時、辛い時、悲しい時へと向かわ
なければならなくなります。このようにして、変容貌の話は、イエス様や弟子たちの生涯においてガリラヤからエルサレ
ムへと至る丁度転換点に位置するということができます。つまりイエス様によるさまざまな奇跡や新しい教えを見聞きす
ることができたガリラヤの楽しい日々から、変容貌を境にして、自らを、そして命をも献げて十字架へと向かうイエス様
に従っていかなければならないという、不安や苦痛を伴う決断の日々へと転換する訳です。いわば、神様から恵みを与
えられていた日々から、自らを神様に献げ尽したイエス様に従っていく日々へと変わる訳です。これが、大斎節を前に
した大斎節前主日に、この変容貌の記事を読むようにと選ばれている意味と言うことができます。
このようにして、大斎始日を境にして、わたしたちの信仰生活はイエス様が十字架へと進んで行かれたように自らを神
様に献げること、あるいは犠牲を伴う愛を実践していくことへと進むように求められています。わたしたちは、自らの人
生において当然、楽しい時、嬉しい時がずっと続けば良いと期待します。あるいは爽快な時、心地よい時がずっと続い
ていくことを望んでいます。丁度、あのガリラヤの日々のように。そしてまた、ペトロが山の上でイエス様の変容の出来
事を目の当たりにしたとき、イエス様とモーセとエリヤといつまでも一緒に暮らしたいと、仮小屋を三つ建てて、この至福
のときにずっと留まり続けたいと思ったように。しかし、神様は人間をそのような日々、またそのような時に居続けさせ
ることをあえてしません。神様は人それぞれに、楽しい時、嬉しい時、爽快な時、心地よい時を備えつつも、人をそのよ
うなところに留まり続けさせるのではなく、新たな使命へと召し出し、追い出し、送り出します。それは丁度、ペトロたちを
山の上から、律法学者やファリサイ派の陰謀が渦巻く、やがては群集や自分たちがイエス様を裏切ることになる、また
様々な病気や障害を負い悩み苦しみを追っている人々が生きる山の下の現実に送り出し、山の下のこの世の生々し
い現実の中で自らを献げ、愛を実践して行くという使命を持って生きていくことへと送り出したように。
大斎節になると大斎克己献金の袋が配られます。それは、ペテロがイエス様の変容によって喜びのときを経験した山
の上から降り、十字架へと進むイエス様に従って行ったように、私たちもイエス様の降誕の喜びから降り、自らを献げ、
犠牲を伴う愛を実践していくイエス様に従っていく必要があるからです。そのような愛の実践こそが大斎克己献金です。
大斎克己献金の使途は他者のために用いることです。昨年は3月15日に起こったマダガスカルのサイクロンにより1
0万人以上の人びとが被災し、その復興のために献げられました。また、4月2日には5000人以上が地震と津波によ
り被災し、その復興のために献げられました。また、8月15日に起こったペルーの地震により死者500人以上、被災
者8万人以上を出した被害の復興のために献げられました。その他にもさまざまな外に向かう働きのために献げられ
ました。このようにして、大斎克己献金は、いろいろな困難の中にある人々のために使われ、私たちの自己犠牲を伴う
愛の実践のしるしと言うことができます。
このように捉えると、大斎節の間、例えば甘いものを絶つとか、お茶を断つとか、好きなものを絶つという、すなわち、
何かを絶ったり、何かを慎んだり、何かを我慢したりするのは、大斎節が節制や克己に励む期節であるからという意味
よりは、むしろ犠牲を伴う愛を実践していく期節であるからと言った方が適切です。犠牲を払うわけですから必ず、痛み
や損や利害に反することが付きまといます。当然この世の常識では、痛みを負わない、損をしない、利益になることが
奨励されます。しかし、この世の常識に反する行為が、実はまったく逆の結果を生み出すということをキリスト教は教え
ます。すなわち、誰も信じることのできなかった復活という事実です。そして、そこにこそ、本当の喜びが与えられるとい
う事実です。
改めて、今週の水曜日から始まる大斎節を生活していく私たちの姿勢を、今日確認しておきたいと思います。
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