3月16日の説教



本日の説教はありませんでした

【加藤司祭による本日の説教原稿より】

復活前主日

今日の福音書には、イエス様の受難物語が記されています。場面は、イエス様が弟子たちとの最後の晩餐を終えた

後、ゲッセマネの園で逮捕され、大祭司カイアファの屋敷に連れて行かれ、夜が開けてから総督ポンテオ・ピラトのとこ

ろに連れて行かれるところから始まります。そして、裁判が始まり、イエス様への尋問が行われ、結果十字架につける

ために兵士たちに引き渡されました。そして、ゴルゴタの丘まで十字架を担ぎ、十字架につけられ、午後3時ごろ、イエ

ス様は大声で叫びながら息を引き取りました。

イエス様はなぜ十字架刑に処せられたのでしょうか?その要因とは何だったのでしょうか?常識的に考えれば、イエス

様が罪を犯し、その罪が告発され、審理が行われた末に有罪と判決され、刑に処せられたというのが筋です。つまり、

イエス様の行動に死刑に値するだけの罪が認められたからということになります。しかし、実際は違いました。それは、

審理を行った総督ピラト自身自らが語っていることです。つまり、彼は群集を前にしてイエス様が「いったいどんな悪事

を働いたのか」と問い、また「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と、群集の前で水を持

って来させ、自分の手を洗いながら言いました。ピラトはイエス様に尋問しても、罪を見いだすことができず、ましてや死

刑に値するような罪など認定することができなかった訳です。しかし、それにもかかわらず、ピラトはイエス様を死刑に

するために兵士に引き渡しました。ここに、イエス様が十字架刑に処せられた要因の一つがあります。それは、ピラト

の責任転嫁、あるいは放棄です。自らはイエス様に罪を見いだしえなかったにもかかわらず、叫び続ける群衆の声に

聞き従いました。彼は群集の声を聞かないと群集が暴徒と化し、ユダヤの治安を任されている者としての立場が危うく

なると考えました。そこで、いやおうなく死刑を選択させられたが故に、イエス様の処刑に自分は関係ないと言い放ちま

した。一人の人の命と自分の立場とを秤にかけ、あるいは一人の人の命と多数の人の言い分や満足とを天秤にかけ、

一人の命を見捨てたのがピラトでした。あるいは、真実を捨ててでも、自分の安寧を選んだのがピラトでした。そこにあ

ったのは、ピラトの自己保身でした。

イエス様が十字架刑に処せられた要因の二つ目は、群集にあります。群集は約一週間前まではイエス様を歓迎してい

ました。イエス様がエルサレムに入城する際、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるよう

に」と賛美の声を挙げて、イエス様を喜んで迎え入れました。しかし、一週間が経過する中で、掌を返したように「十字

架につけろ」とイエス様に対して叫ぶようになり、その態度が豹変しました。群集はそれまでイエス様がガリラヤで行っ

てきた様々な事績や評判を耳にしていました。そして、イエス様を偉大な預言者と信じ、ローマ帝国という異邦人の支配

からユダヤ民族を解き放ってくれる政治的な解放者として、大きな期待を込めて見ていました。あるいは、貧しい暮らし

を強いられていた群集の生活に変革をもたらしてくれる社会的な救済者として、熱烈な思いを持って見ていました。しか

し、イエス様はエルサレムに入ってから、一向に群衆が期待するような、あるいは思い描くような言動をしてはくれませ

んでした。群衆がイエス様に寄せた期待が厚かっただけに、また熱烈であったがために、思い通りの行動をしてくれな

いという不満は募り、そして膨れ上がり、イエス様に裏切られたという挫折感は大きなものになりました。群集の180度

の心変わりは、イエス様に対して勝手に抱いた大きな期待感の裏返しとして起こったものでした。それはまるで、熱烈な

ファンが期待を裏切られたことにより暴徒と化すような群集心理を表しています。いわば、イエス様に勝手なイメージを

寄せ、偶像化して見ていたことにより、その像に当てはまらなかったが故の反動といえるものです。

そして、イエス様が十字架刑に処せられた最後の要因が、ファリサイ派や律法学者や祭司などのユダヤ教指導者層に

ありました。彼らは、自ら正義を護持する者としての、また、信仰の擁護者としての自負がありました。つまり、自分たち

は神様から選ばれ、正しいものであるという自尊心にみなぎっていました。そのこと故に、貧しい人たちや異邦人を見

下して見ていました。そのような彼らの足元をすくったのがイエス様でした。イエス様は、彼らが回心を必要としていた人

たちの友となりました。そして、回心の必要などさらさらないと信じきっていた彼らに回心を迫りました。自尊心を持って

いた彼らにしてみれば、それをまっこうから傷つけられたことになります。神様への熱烈な信心により生きていた彼らに

とってみれば、神様を否定され、信仰心をずたずたにされたことになります。そのようなことをされた彼らは、イエス様を

憎み、否定することへと向かいました。また、貧しく暮らす群衆の賞賛を浴び、それらの人たちが大勢イエス様に従って

いく姿を見た彼らは、威信を失墜され、嫉妬を抱くようになり、亡き者にしてやろうという思いを抱くようになりました。

現実の話として、わたしたちはピラトや群集やファリサイ派や律法学者や祭司などがイエス様を死に追いやり、またイエ

ス様が十字架にはりつけにされた約2000年前にイスラエルに生きていた訳ではありません。従って、私たちはイエス様

が十字架刑に処せられたことに、何の役割も関係も負っていないと言えます。歴史的事実から見れば確かにそのよう

に言えます。しかし時間や空間を超えた信仰の目で見たときには、決してそのようには言えません。つまり、イエス様が

ピラトや群集やユダヤ教指導者層の人たちのもくろみにより十字架にはりつけにされた際、そのようにもくろんだ人た

ちの中にわたしたちも含まれていたということです。

結局、イエス様が十字架刑へと処せられた要因は、ピラトや群集やユダヤ教指導者層の人たちの心の中にありまし

た。それらを一言で言うならば、自己中心ということです。自分を中心にすえ、自己を絶対化するところから、責任転嫁

や自己保身が生まれました。そこから、対象の偶像化も出てきました。そこから自尊心も芽生えてきました。そして、そ

こから、イエス様を排除する方向へと進み、イエス様とともに生きていく道が閉ざされました。これらは、何も、ピラトや

群集やユダヤ教指導者層の人たちだけが持っていたものなのではなく、わたしたち人間であれば誰の中にも潜んでい

るものです。人間であればすべての者が持ち合わせている、そのような資質を、聖書では罪と呼んでいます。つまり、

人間は必然的に自己を中心にし、自己を絶対化して生きていくものであるという人間理解、すなわち人間は罪人である

という理解があり、それにより人間は神様をも隣り人をも排除して、一緒に生きていくことができないという理解があると

いうことです。そして、そのような人の性を人の力ではどうにも解決しようがないという理解です。それ故に、そのような

人の性に救いの手を差し伸べることが可能なのは、人の力を超える神的助けに寄らざるを得ないという理解です。そし

て、その神的助けとして現れ出たのが、神様の子であるイエス様による贖罪という信心でした。つまり、人間には自らの

力では拭い得ない自己中心性や自己絶対化という衣があり、それをイエス様が人間の代わりにまとい、十字架にかか

って死に、復活することを通して、その衣が拭われたという信心です。つまり、人はイエス様の十字架と復活を通して、

自らまとっていた自己中心性や自己絶対化という衣が取り除かれたということです。すなわち、わたしたち人類は、イエ

ス様の十字架と復活により、自分中心に、また自己を絶対化して生きる姿から解放され、神様を中心にして、神様を唯

一の絶対者として信じ生きることができるようになったということです。それは、すなわち、神様とも隣り人とも一緒に生

きることができるようになったということです。

このことを、わたしたちは毎主日の聖餐式の中で、「あなたのために与えられた主イエス・キリストの体」「あなたのため

に流された主イエス・キリストの血」という言葉をもって、イエス様の体と血を身に受けることを通して確かめています。

パンとぶどう酒は、イエス様の体と血であす。その体と血は、十字架を背負い血を流しながらゴルゴタの丘へと向かっ

たイエス様の体と血です。そして、ゴルゴダで両手両足を釘付けられた時に流された血であり、わき腹を刺された時に

流れ出た血であり、そのようにして十字架にはりつけにされた体のことです。陪餐においてパンとぶどう酒を受けると

き、この体と血は、他の誰でもない、あなたのためにはりつけになった体であり、あなたのために流した血だと言われて

いる訳です。そして、わたしたちはそれに対してアーメン、すなわち、まさにその通りですと答えます。それは、すなわ

ち、あのパンはわたしのためにイエス様がはりつけになってくださった体であり、あのぶどう酒はわたしのためにイエス

様が流してくださった血です、と言っている訳です。そのようにして、わたしたちは、パンとぶどう酒を受けるたびに、つま

りイエス様の体と血をいただくたびに、イエス様がわたしたちに対して行った贖罪の業を忘れないように思い返し、確認

していると言えます。それは、イエス様の十字架と復活によって、わたしたちは、もうすでに、自分を中心にして生きてい

く姿から神様を中心にして生きていく姿に変えられ、自分を絶対化するのではなく、神様のみを絶対として生きていくよ

うにされ、神様をも人びとをも排除することなく一緒に生きていくことができるような自分になったということを確かめてい

ると言えます。そして、具体的には、そのようにしてくださった神様の恵みに感謝しつつ、その感謝の思いを表わすべく

相応しい生き方をしていきましょうということです。

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