まじわり130号

【巻頭言】(加藤司祭)

 前回は旧約聖書の創世記2章から、神様によって造られた人がエデンの園に住まわせられたところまでお話しまし

た。その話に引き続いて神様は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と仰いました。この言葉は

本来あるべき人の姿を表しています。それは人とは関係の中にあって初めて存在できるものであり、決して独りで生き

るものではないということです。つまり人とは単体で存在できるものではなく共同体的なものとして生きていくことが出来

るということです。しかもその関係性は単に助け・助けられるというものではなく、互いに仲間として連れ立って共に歩む

関係です。それは「助ける者」と邦訳されている英訳がヘルパーではなくパートナーであるところから分かります。例え

ばソプラノ、アルト、テノール、バスという4つのパートで構成される音楽では、それぞれのパートがそれぞれの個性を発

揮することによって和音を形作り一つの素晴らしい音楽を作り上げていくことができます。それぞれのパートは決して他

のパートを補ったり助けたりする補完的な役割をしている訳ではありません。そのように一人一人には必ずパート、す

なわち共同体として生きていく上での役があります。子供であれ高齢者であれ、男であれ女であれ、障がいのある人で

あれ、病気の人であれ、社会の中で役割がない人はいません。すべての、どのような人も過不足なく、皆今のありのま

まの姿で受け入れられ、一人一人は皆連れ立って共に歩く仲間です。そうして、それぞれの人が必ず持っている役、つ

まり個性を発揮して生きていく中で初めて人と人との関係が成り立ちます。他人の色に染まったり、他者を色に染めよ

うとしたりして、自立した個性が否定されるところに関係は成り立ちません。

こうして、神様は創造以来独りでいた人に対してパートナーを探しました。そして人を深い眠りに落とし、そのあばら骨

の一部を取って女を造り上げ、彼女を人のところに連れてきて女と男が出来上がりました。そして人は自らのあばら骨

で作られた女に対して「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と喜びの叫びをあげました。この話をもとに女は男

から造られたという主張がありますが、聖書を注意深く読むと、そうではないことが分かります。女は男のあばら骨から

造られたのではなく、神様が最初に創造した一人の人のあばら骨から造られ、その結果女と男ができたと解せます。こ

の話が教えるところは、男であれ女であれ誰であれすべての人は皆源を同じにしている一人の人に属し、その人から

派生しているということです。これは命についての教えとも言えます。つまり命とはこの世にたった一つしかなく、一人一

人が持っている命は、そこから派生している一つの命のかけらであるということであり、決して一人の人は一つの命を

持っているのではないということです。すなわち、命とは私たちの命なのであり、私の命などどこにも存在しないというこ

とです。この教えは、聖餐式の際にホストと呼ばれる一つのパンを司祭が二つに裂き、裂かれたパンが一人一人に配

られる場面にはっきりと表されています。分餐の際、現実的には裂かれたパンではなく別の小さなピープルと呼ばれる

パンが一人一人に配られてはいますが、あの小さな丸いパンは司祭が裂いた一つのパンのかけらを象徴しています。

つまり、一つの命のパンが裂かれて、その命のパンのかけらを一人一人の人は頂いて命を得ているということです。結

局この聖書の話も、また聖餐式の所作も、人とは共同体的な存在であることを教えています。すなわち人や命というも

のは、人数分だけの人や命があるのではなく、本来一人あるいは一つしかないということであり、人や命は皆源を同じく

しているが故にお互いに関係し合っているということです。関係しているということは、他の人や命が傷つけられたり痛

んだりすれば、それは他人事ではなく自分の命が傷つけ痛められたと同じことになるということです。人がもう一人の造

られた人に対して「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言っているのは、まさに自分と他者とは切り離すことのできな

い一体のものだということです。そのようにして、人とは一人で自己完結的に生きるものではなく、一緒に手をつなぎあ

い歩調を合わせて共感し合いながら連れ立って生きていくものであることを教えています。

あばら骨の話の後、聖書は「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」と続けています。こ

れまでの聖書の箇所は結婚式の際に読む旧約聖書として選ばれているところの一つです。夫婦は主従の間柄ではなく

お互いにパートナーであり同等の仲間です。それ故にそれぞれがパートの個性をしっかりと自覚し、奏でていく必要が

あります。しかしその目的は自己実現のためではなく、この世にその夫婦、あるいはその家庭にしか演奏できない一の

楽曲を合奏するためです。そして夫婦は一人が二人いるのではなく、一体である一つの夫婦のかけらを二人が担い合

っているということです。であるが故に「あなたの痛みはあなたのものでしょ。私には関係ないわ。」と言うことはできず、

私の痛みでもあるという感覚が必要になります。そして夫婦が一体となるためには父母を離れなければなりません。父

親の姿を夫に投影していては、また母親の態度や味や幻を妻に要求していては、夫婦は成り立ちません。そのような

意味で夫婦はきっちりと自らの親と離れなければなりません。(つづく)

トップへ
トップへ
戻る
戻る