3月23日の説教

復活日

皆さんはイエス・キリストが復活したと本当に信じているでしょうか?そして、イエス・キリストと同様、わたしをも含むす

べての人が復活することをまともに信じているでしょうか?実際に自分が目の当たりにした死者、つまり心臓の鼓動が

止まり、体が冷たくなり、火葬場で焼き骨壷に納めた人の体が、よみがえると本当に思っているのでしょうか?ここにお

集まりのクリスチャンの方は、改めて尋ねられるまでもなく、そのように信じていると思います。しかし、そのように信じて

いる人は世界の中に3割弱しかいません。この地球上に住んでいる7割以上の人たちは、キリスト教が主張するところ

の死者のよみがえりを信じてはいません。日本に至っては、1%にもならず、ごくわずかであるのが現実です。教会に

いると、そのように信じている人たちが大勢いるような錯覚に陥りますが、実際ほとんどの人は、一度死んだ人間が復

活するなどということを信じてはいません。もしかすると、クリスチャンの中にも、本当は復活など起こりうるはずもないと

思っている人もいるかもしれません。

イエス様と実際に生涯をともにした弟子たち、しかも十字架につけられた後三日目に復活することをイエス様から生前

に三回も聞き、当然心の準備もできていてしかるべき弟子たちも、最初は復活を信じることができませんでした。復活し

たイエス様に出会った婦人たちが、そのことを弟子たちに告げたとき、彼らの反応は、婦人たちの証言をたわごとのよ

うに思い、信じませんでした。また、パウロがギリシアのアテネで人びとにイエス様の復活について語ったとき、ある人

びとはあざ笑い、ある人びとは「それについては、いずれまた聞かせてもうことにしよう」と言い、聞き入れられませんで

した。また、コリントの教会においても、死者の復活などないと言っている人びとがいました。その後も、キリスト教を取

り巻く人びとの中に、イエス様の復活を否定する人びとが現れています。例えば、弟子たちがイエス様の遺体を盗んだ

という盗難説、あるいは、イエス様が墓に葬られた際、実際には死んでいなかったという仮死説、あるいは、弟子たち

は復活したイエス様の幻を見たにすぎないという幻視説、あるいは、イエス様の復活は弟子たちが作った創作であると

いう作り話説、あるいは、弟子たちの心の中にイエス様の教えや行いが思い出されたという意味で復活したという心理

的復活節などなど、イエス様の復活を否定する説を唱える人びとが出てきました。そして、科学が進歩し、合理的に物

事を考えるようになった現代においては、なおさらイエス様の復活や死者の復活を信じることが難しくなっているのだと

思います。

このように、現代までイエス様の復活や死者の復活を疑い、また起こりうる筈がないと思っている多くの人がいたという

ことは、また今もたくさんいるということはまぎれもない歴史的事実だと思います。しかし、それでも、イエス様の復活、そ

して死者の復活を信じる信仰者が絶えることなく2000年に渡り存在し続けたという事実は、非常に不思議です。なぜ、

イエス様は復活したと、あるいはすべての死者は復活すると信じ続ける人びとがい続けたのでしょうか?わたしが考え

るに、恐らく、イエス様はよみがえりました、だからすべての人は死んだ後よみがえりますという出来事と教えを伝える

だけであったのならば、このように長きに渡って復活信仰は守り続けられては来なかったのだと思います。復活の出来

事の伝播だけではなく、そこに人類にとってのかけがえのない大切な教え、あるいは真に迫るものがあったからこそ受

け継がれ続けてきたのだと思います。あらゆることが科学的に解明され、人びとが合理的に物事を考えるようになり、

多数決を原則として意思を決定する民主主義的な社会になってきた現代において、ますます復活ということは信じがた

くなっている世の中だと思います。復活の出来事を通しての、人類にとってのかけがえのない大切な教え、あるいは真

に迫るものとは一体何なのでしょうか?

復活とは、明らかに人の命の事柄です。つまり、復活とは人の命についての何らかのメッセージを伝えようとしていると

いうことです。人は命を持っています。そして人は誕生をもってこの世に生を受け、死をもってこの世の生を閉じます。こ

の二つの事実は古今東西、いつの時代においても、どこの場所においても、またどのような人においても共通している

事柄です。キリスト教は、人に備わっている命を、人が持っているもの、あるいは獲得して得たものとしてではなく、神様

が創り出すものとして理解しています。そして、人は神様が創造した命を神様から与えられます。しかも、その命を永遠

なものと信じています。つまり、わたしたちの命は自分が所有しているものではなく、神様から与えられたものであり、そ

の命には初めや終わりがなく、時間や空間を越えているものということです。そのような命をもって、わたしたちはあると

きこの世に誕生し、そしてあるとき死にます。いわば、神様が時宜にかなったときに、人をこの世に送り、時宜にかなっ

たときにこの世から取り去ります。その狭間をこの世での人生と言い、わたしたちは今その狭間を生きていると言えま

す。つまり、生きるとか死ぬとか、あるいはその間の人生というのは、命の事象、あるいは命の現われ言えます。要す

るに、誕生をもって命が始まるのではなく、死をもって命が終わるのでもなく、人生は命が躍動している期間でもないと

いうことです。命は誕生や死という出来事、あるいはこの世でのいかなる人生にもかかわりなく、あってあり続けている

ものであり、止まることなく躍動し続けているものです。わたしたちは誕生をもって命が始まり、死をもって命が終わり、

その誕生と死との間を命がある期間として捉えがちですが、そのような捉え方が間違っていることを、復活という出来事

は少なくとも表していると言えます。つまり、死という出来事をもってしても命の営みは止まっていないということを、イエ

ス様の復活は、そのメッセージとして語っています。

そのような、誕生をも死をも突き破っている命は、たった一つしかありません。わたしたちは一人一人の人に一つ一つ

の命がそれぞれに与えられている、つまり人の命は人数分あると考えてしまいがちですが、キリスト教は、命は一つし

かないと教えています。そして、たった一つの命が人びとに分け与えられていると捉えます。つまり、人びとはたった一

つの命のかけらをそれぞれに分かち持っているということです。それはすなわち、あの人の命はわたしの命でもあると

いうことです。そこから、あの人の喜び、憂い、辛さ、悲しさは、わたしの喜び、憂い、辛さ、悲しさであるということにつな

がります。要するに、人の命は単体で存在するのではなく、つながっているということです。人の命とは人びととの関係

の中で存在し、命が結び合っているが故に、すべての人の思いは互いに受け入れられるという信頼の中で存在できる

ということです。

しかし、そのような命を脅かし、否定する力が、人の中にはあります。その力は、人の中で、神を否定しようと働きます。

つまり、わたしが神である、だから他に神はいないという幻想を抱かせます。わたしが神であるということは、命は与え

られたものではなく自分もの、一人一人はその人固有の命を持っている、だから、自分が持っている命を自分の意思

や判断で思うがままに使ってよいということになります。そして、他の人の命の問題はそのひとの事柄でありわたしには

関係ないと、命のつながりを否定する結果へと導きます。そこから人への信頼の絆が崩れ、不信を抱き会い、人の思

いを互いに受け入れあうことができなくなり、人の命が孤立へと向かいます。人が孤立することによって、自分を守り、

他者を攻撃することへとつながります。そして、他者への攻撃は、弱いものへと向かいます。弱いものは更に弱いもの

へと攻撃の手を向けます。こうして、強いもの、大きいもの、多いものが、弱いもの、小さいもの、少ないものをむしばん

でいくことになります。そして、偏見、抑圧、差別、無視、無関心、争い、いさかい、戦争などが起こります。こうして、つ

ながりの中にあって存在できるすべての命が、失われていくことになります。このような状態が死です。人の死は、心臓

の鼓動が止まり、体が冷たくなってしまった状態のことを指してはいません。神との関係、それゆえに人との関係も遮断

された状態が死です。その死をもたらす大本の原因が、わたしは神だと主張するところにあります。

しかし、わたしが神だなどと思っている人はごくわずかだと思います。しかし、「わたしが、わたしが」、あるいは「わたし

の、わたしの」、あるいは「わたしに、わたしに」と言いたがる傾向は、あるのではないかと思います。自分の利益を最優

先に考え、行動したり行動しなかったりする傾向は、多分にあると思います。このような傾向が罪であり、その力が死と

いう状態を引き起こします。このような死の状態は、人が生み出したものです。であるがゆえに、そこから抜け出すの

も、人が何とかするしかありません。しかし、人はいかにしても、そしてどのような努力を積み重ねても、人が持つ罪の

傾向とそれが導き出す死の状態から脱出できません。そのような状態から人を解放しよう、すなわち罪の力に縛られ、

死の状態に陥っている人を救おうと、神は動き出しました。それが、イエス・キリストをこの世に送るということでした。

イエス・キリストは「わたしが、わたしの、わたしに」ではなく、神様の思いが行きわたるように、神様の願いに誠実である

ように、すべてのものは神様のものと信じて生きた方でした。真実の神様を無視し、自らが神様になっている人に対し

て、神様とのつながりの回復を目指し、自ら徹底的に神様のみ心のままに生きた人でした。であるが故に、すべての人

とのつながりを生きた人でもありました。だからこそ、当時関係を閉ざされていた病者や障害者や社会的弱者と交わり

を持ちました。それは、かわいそうだからでも、気の毒だからでも、助けてあげたかったからでも、その人の力になりた

かったからでもなく、本来人が持ち、与えられている命に誠実であったからです。そして、弟子たちを囲んでの最後の晩

餐では、命が一つであること、そして命のかけらが一人一人に分け与えられていることを、一つのパンを裂き、裂いた

パン切れをそれぞれの弟子たちに与えたことをもって伝え、人の命はつながりの中で、共感しあうことによって初めて

存在できることを教えました。しかし、そのように生きたイエス様も、最後は祭司や律法学者や総督ピラトに代表される

罪と死の力により十字架につけられ、殺されていきます。そこで終わってしまっていたら、歴史上に非業の死を遂げた

一人の人がユダヤにいたというだけで、イエスの名前は語り継がれることもなかったと思います。ところが、そのイエス

様が三日後に復活しました。その復活を通して、キリスト教の教えが展開していきます。つまり、あのイエス様の十字架

の死は、罪の力により死の状態に縛りつけられていたわたしたちを、解き放ってくれた出来事だったという理解です。す

なわち、人の力や精進では、どうしても抜け出しきれなかった「わたしが、わたしが」という自己中心的で、それ故排他

的で、攻撃的になる姿が、イエス様の十字架を通して解き放たれ、本来の命のあり方、つまり神様が創造し、人に与え

た命のあり方が、それはすなわち、命を与えられた人としての本来の生き方が回復されたと、復活を通して信じること

ができるようになったということです。そして、復活したからこそ、イエス様は今でも、わたしたちとともにいて、今尚、「わ

たしが、わたしが」と自己中心的に生きるわたしたちの罪を背負い、その罪の束縛からわたしたちを解き放ち続けてく

ださっているということです。もし、イエス様が十字架の死で終わってしまっていたら、ここまでの展開はなかったと思い

ます。

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