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復活節第2主日
今日の福音書にはトマスの話が出てきました。トマスという弟子の印象は、今日の福音書に書かれているところから
思い描かれる部分が非常に大きいと思います。つまり、週の初めの日の夕方、弟子たちが家の戸に鍵をかけていたと
ころに、復活したイエス様が現れ、そこにいなかったトマスが、イエス様の手に十字架の釘跡を見、自分の指をその釘
跡に入れてみなければ決して信じないと仲間の弟子たちに言った、というところです。そこから、トマスという人は懐疑
心のある、疑い深い人だったというイメージが一般的に広まっているように思います。しかし、トマスは本当にそのような
人だったのでしょうか?疑い深い性格だったから、イエス様の復活を信じることができなかったのでしょうか?
聖書にはトマスのことが書かれているところが他に三箇所あります。まず、イエス様の12人の弟子の一人として、その
名前が共観福音書に記されています。トマスはイエス様の12人の直弟子の一人としてイエス様とともに生活し、教えを
受け、奇跡を目の当たりにし、最後の晩餐の席上にもいた人でした。
次にラザロが復活するという場面では、トマスが語った言葉がヨハネ伝に記されています。場所は、イエス様がヨルダ
ン川の向こう側、すなわちヨルダン川東岸でのことでした。そこでイエス様と弟子たちは、ラザロが病気であることを知
らされました。ラザロはヨルダン川西岸の町、ベタニアにいました。そのとき、イエス様が「もう一度、ユダヤに行こ
う。」、すなわちラザロがいるベタニアに行こうと弟子たちに語りかけました。すると、弟子たちは「ラビ、ユダヤ人たちが
ついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」と不安げにイエス様に問い返し
ました。弟子たちにしてみれば、イエス様のみならず自分たちの身にも危険が及ぶと感じ、ユダヤに赴けば殺されるの
ではないかと躊躇する思いがあったのだと思います。そのとき、トマスが仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一
緒に死のうではないか」と言いました。この言葉から、トマスという人の人となりが感じられます。トマスは自らの死をも
恐れない勇敢で一途な人物、また死ぬことをも覚悟してイエス様に従っていこうとする信心深い熱意のある人物と受け
取れます。しかし、そのような大言壮語したトマスも、イエス様が逮捕され十字架にはりつけにされるときには、いなくな
ってしまっていました。そのことから考えると、トマスは勇敢で信仰篤き人というよりも、死ぬことを意識していた人と言え
るのかもしれません。つまり、イエス様と一緒に死のうではないか、と言うほどに、死に方に美学を感じているという人生
観を持っている人ということです。それはすなわち、人は死で終わりであるが故に、どのように死ぬかに問題意識を持
っていた人と言えます。
三番目は、イエス様の告別説教の中で、トマスがイエス様に質問する言葉があります。イエス様は弟子たちに「心を
騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなけれ
ば、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って
来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ
行くのか、その道をあなたがたは知っている。」と語ります。すると、トマスが「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちに
は分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と応えます。トマスはイエス様がどこに行こうとしてい
るのかが分からないし、父の家がどこにあるのかも分からないし、そこへどのようにして行けるのかも知りえないと応え
ています。イエス様が「神を信じなさい、そしてわたしをも信じなさい」と語るのに対して、トマスは「分からない、知ること
ができない」という言葉をもって応えます。トマスは死後の世界を分かろう、知ろうとしている様子が伺えます。
結局、トマスは疑い深い人であったというよりも、死が人間の、すなわち人生の終わりと捉えていた人なのだと言えま
す。つまり、人間に分かり得る世界や知り得る世界しか存在しないと捉えていたのだと思います。だからこそ、いかに死
ぬか、どのように死ぬかにこだわり、逆に言えば、どのような人生の終局を迎えるかに目標を据えて、そのためにいか
に生きるかということに価値を置いていた人なのだと思います。そのような彼の信仰は、必然的に、人が終わりを迎え
るまでに何をするかに向かいます。であるが故に、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」という言葉が彼の
口から出てくる訳です。彼の信仰は、分からない世界を信じようとするのではなく、分かろう、あるいは知ろうとするとこ
ろにあり、何かに委ねるのではなく、自分が何をどのように行動するかという領域の中にあったと言えます。いわば、ト
マスは、特に疑い深い人だったというよりも、わたしたち人間が持つ側面を代表している人として描かれていると言えま
す。
そのようなトマスにとって、イエス様の十字架は自らが思っていた信仰的な姿勢を崩される第一歩だったと思います。
信仰とは何をどのように行動するかにかかっていると捉え、それ故イエス様と一緒に死ぬことをもって信仰の証と考え
ていたトマスが、イエス様の十字架を前にして取った態度は、イエス様と一緒に死ぬどころか、死ぬのを避けてどこか
に逃げるということでした。つまり、トマスにしてみれば、信仰の証をなしえませんでした。それは、自らの信心が揺さぶ
られ、また信仰そのもののあり方を問い直されることにもつながったと思います。そのようなとき、イエス様が復活した
知らせを仲間の弟子たちから聞きました。しかし、それでも、トマスはその知らせを受け入れることができませんでし
た。依然、信仰を分かり得ることの世界の中で捉え、実際に釘跡を目で見て、釘跡に指を入れることにこだわりました。
そして、ついに、復活したイエス様を目の当たりにし、目撃することになりました。そして、「見ずして信じるものは幸いな
り」と声をかけられました。トマスは、この出来事をもって、信仰とは分かり得ないことを、また知り得ないことを、それ故
実際に見えも聞こえもしないものを信じることであると気づかされました。そして、信じるとは、信仰者が何をどのように
行動するかによって成立するものではなく、イエス様が何をどのように行動してくださったかを受け入れることによって
成り立つものだと気づきました。そして、トマスは、恐らく、ここで、人間の終わりが死ではないことをはっきりと受け入れ
ることができるようになったのだと思います。
信仰とは、縛られているものから解放されることであり、自由になることです。獲得しようとする営みではなく、与えられ
るものです。つかむことではなく、手放すことです。到達しようとすることではなく、既にあることに気づくことです。
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