5月4日の説教

復活節第7主日・昇天後主日

 先週の木曜日、教会はイエス様が復活して後40日目に天に昇られたことを覚えて礼拝いたしました。そして、今日は

その次の日曜日に当たります。ここのところの主日の福音書はヨハネによる福音書の告別説教のところが選ばれてい

ました。今日の福音書も同じ告別説教のところであり、特にその最後の締めくくりとして、イエス様が告別の祈りを献げ

たところが選ばれています。その祈りの冒頭でイエス様は「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光を現すよう

になるために、子に栄光を与えてください。」と天を仰いで神様に祈りました。イエス様は天にいる父なる神様に呼びか

け、祈りの内に時が来たことを告げました。

イエス様はこの告別の祈りの中で、自らの時が来たことを神様に告げていますが、ヨハネ福音書において、イエス様は

これまで二回にわたって「わたしの時はまだ来ていない。」と語っていました。その最初はカナの婚宴でのことでした。婚

礼でぶどう酒が足りなくなったとき、母親のマリアがイエス様にそのことを告げると、イエス様が「婦人よ、わたしとどんな

かかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と語りました。次に語ったのはイエス様がガリラヤを巡って

いた際、エルサレムで仮庵祭が祝われようとしている時のことでした。イエス様の兄弟がイエス様にユダヤに行って自

分を世の中にはっきりと示すようにと勧めたとき、イエス様は「わたしの時はまだ来ていない。」と語りました。「わたしの

時はまだ来ていない。」と語った、この二つの話を見ると、イエス様は明らかに初めから、ある一つの時に向かって人生

を進めていることが分かります。ある一つの時を頂点として見据え、そこに向かって自らの人生を上っています。その、

ある一つの時を、周りにいる人たちは、自分の思いや考えや願いで判断し、その時が来たとイエス様に呼びかけてい

ます。マリアは婚礼でぶどう酒が足りなくなった状況に遭遇し、この時こそイエス様が自らの力を発揮して欲しい時と考

え、イエス様に呼びかけました。イエス様の兄弟は、仮庵祭でエルサレムに人びとが大勢集まっている時にこそ自らの

言動を公に示すべき千載一遇の時と考え、イエス様にエルサレムに上るようにと呼びかけました。周りにいる人たち

が、その思いや考えや願いから、今こそまさにうってつけの絶好の時であると判断しても、イエス様はまだ自分の時が

来ていないと告げています。イエス様と周りの人びとの間には、明らかに時の見極めにおいてくい違いが生じています。

この違いは、時を見分ける上で何にその基準を置いていたかの違いにありました。すなわち、自分の思いや考えや願

いから時を識別するか、神様の思いや考えや願いから時を判断するかの違いと言えます。

さて、わたしたちも人生において時を見分ける必要に迫られることがあります。人生の岐路に立たされたとき、あるいは

人生において何か重要な決断をしなければならないとき、どちらを選択したら良いかを判断する際に、さまざまな考慮

するポイントがあります。その中で、時の識別は恐らく最も重要な要素だと思います。つまり、どちらの事柄が時宜に適

っているか適っていないか、あるいはこの事柄を行うに際して時が満ちたか満ちていないかという視点です。その時を

識別し判断を下すのは当然自分です。その際、決断をする上で、クリスチャンは祈りの内に神様の意思を尋ね、判断

を求めます。そこで問題になるのが、神様の思いや考えや願いはどのようにしたら悟ることができるのかということで

す。あるいは、自分の思いや考えや願いが神様の思いや考えや願いと一致しているのかどうか、それがどのようにした

ら分かるのかということです。これは神様のみ心を行おうとする信仰者にとっての大きな課題です。その示唆を与えてく

れるポイントが、イエス様の祈りの中に表されています。そのポイントとは栄光という言葉です。

栄光という言葉を辞書で引くと、困難を突破して、余人のなしえないことを成し遂げたときの輝かしい状態と書かれてい

ます。栄光と訳されているδοξα(ドクサ)と言う言葉は、聖書において他に、栄華、栄誉、輝きなどとも訳されていま

す。それらの言葉から連想すると、栄光とは何かピカピカ輝いている、とてもあでやかな立派で荘厳な姿や様子が思い

描けます。また、栄光という言葉は、朝夕の礼拝において、「栄光は父と子と聖霊に」と唱えています。聖餐式の中でで

も、参入、大栄光の歌、福音書、ニケヤ信経、代祷、奉献、聖別など、いたるところで栄光という言葉を唱えています。

また、お祈りの言葉においても、「神様のみ栄を現すことができますように」と祈ったりもします。わたしたちは、一体栄

光という言葉をどのような意味において祈り、唱え、使っているのでしょうか?聖書が語る栄光とは、決してきらびやか

なイメージではないようです。

イエス様は今日の福音書にある告別の祈りの冒頭で「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようにな

るために、子に栄光を与えてください。」と祈りました。イエス様は、ここで、すなわち最後の晩餐の席で、時が来たこと、

つまり時宜が到来したこと、時が満ちたことを弟子たちに告げました。この告知の中には、誰かからそのように勧めら

れたから、あるいは時の成り行きの中でということではなく、イエス様の極めて主体的な決断があります。イエス様が

「父よ、時が来た」と断じた時とは、自らが神様の栄光を現す時のことです。その栄光とは十字架上の死です。イエス様

は自分が十字架にかかって死ぬ時がいよいよ来た、と自ら決断しました。そして、その栄光を与えてくださるようにと、

その決断が果たされるようにと神様に助力を求めました。

罪をかぶせられること、手縄を締められ公衆の前に立たされること、鞭で打たれること、つばを吐きかけられること、頭

をこづかれること、刑場まで衆目にさらされて歩かされること、裸にされること、批判を浴びること、ののしりを受けるこ

と、十字架の上で苦しみもだえること、そして磔になって死ぬことが、栄光という言葉のイメージする姿とは似ても似つ

かないように思えます。しかし、聖書はそれを栄光と言っています。十字架が栄光であるということは、栄光とは自分で

勝ち取るものでも、努力して上り詰めていった先に約束されるものでもありません。徹底的に神様の意思を受け継ぎ生

きるところで示されるものです。命も財産も自己主張も、すべてを失い、すべてを捨てるところに現れ出るのが栄光で

す。とても人の出来ることではありません。イエス様ですら、神様に栄光を与えてくださいと助力を願い求めなければな

らないほどのことです。あるいは、「この杯を取り除けてください」と祈ったほどに、栄光へと至る道を進むには困難を極

めました。

時を見分けるために、あるいは神様の思いや考えや願いを見極めるために、あるいは自分の思いや考えや願いと神

様の思いや考えや願いとが一致しているのかどうかを知るために、聖書は、わたしたちが下す判断が栄光を現すもの

であるか否かに、その視点を置くようにと教えています。つまり、いくつかの道を選択する際、ちょっと損をする道、少し

苦しみが伴う道、少々進むことにたじろぎを覚える道、どちらかと言えば余り気が進まない道、本当に良いのかどうか

不安を抱く道、神様に助けを求め祈りたくなってしまう道、それが栄光へと至る道であり、栄光を現す時であるとうことで

す。しかし、わたしたちは、利があると判断できる状況を、万端整っている状況を、何も心配する必要のない状況を、生

きがいを感じ意欲が出てくる状況を選び、そのような時こそ時宜にかなった時と判断しがちです。しかし、聖書は苦悩が

伴うような時こそ、まさに十字架へと向かっている道であり、その時、そしてその道こそ栄光へと至る、すなわち神様の

思いや考えや願いに沿うことになると教えています。

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