4月6日の説教

復活節第3主日

 今日の福音書には、イエス様が復活した後、エマオへの旅の途上にあった弟子たちに現われた話が選ばれていまし

た。クレオパともう一人の弟子は、エルサレムからエマオへ向かって歩いていました。そこに、イエス様が近づいてきま

した。そして、二人の弟子たちと一緒に歩き始めました。そのとき、弟子たちは、ともに歩いている人がイエス様である

とは気づきませんでした。聖書にはその様子を、「二人の目は遮られていた」と書かれていました。二人の弟子たちの

目が遮られ、一緒に歩いている人がイエス様だとは分からなかったということは、二人の弟子たちがイエス様の復活を

信じることができなかったということをも示しています。イエス様の復活を信じることができなかった弟子は、この二人ば

かりではありませんでした。前主日の福音書に出てきたトマスもしかりでした。彼も、最初、イエス様が復活したというこ

とを仲間の弟子たちから聞いたとき、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手を

そのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と答えました。トマスもイエス様の復活を信じることができ

ませんでした。また、イエス様が葬られた墓に出向いた婦人たちは天使からイエス様の復活を聞いたとき、それを使徒

たちに知らせに行きました。その知らせを聞いた使徒たちは、「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信

じなかった。」と答えています。そうすると、ほとんどの弟子たちは、イエス様の復活を最初から信じていたのではなく、

当初は信じることができなかったということになります。そのような弟子たちがどのようにしてイエス様の復活を信じるこ

とができるようになったのでしょうか?

 今日の福音書の最後では、遮られていた二人の弟子たちの目が開き、一緒に歩いていた人が復活したイエス様であ

ると分かったことが記されていました。二人の弟子たちに、そのような変化をもたらした出来事として、つまり、イエス様

の復活を信じることができるようになった出来事として、彼らがイエス様と一緒に食事の席についたということがありまし

た。彼らは、イエス様とともに食事をすることを通して、遮られていた目が開き、イエス様の復活を信じることができるよ

うになった訳です。また、今日の使徒書に選ばれていた使徒言行録には次のように書かれていました。「ペトロの言葉

を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パン

を裂くこと、祈ることに熱心であった。」。また、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂

き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救わ

れる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」この二つの記述から、イエス様の復活を信じた最初の信徒たち

の信仰生活の様子が伺い知れます。つまり、弟子たちはひたすらパンを裂き、一緒に食事をすることを信仰生活の基

盤としていました。エマオへの途上で二人の弟子たちがイエス様と一緒に食事をしたとき、その復活が分かり、そして、

イエス様の昇天後、復活を信じた弟子たちは一緒にパンを裂き、食事をすることを熱心に行っていました。ここに、復

活を信じることが出来なかった弟子たちが、信じることができるようになった理由があり、また信じ続けていくことができ

た理由が表れています。すなわち、ともにパンを裂き食事をすることを通して、復活を信じることができるようになるとい

うことです。イエス様が復活したという出来事は、キリスト教の根幹です。パウロは、「キリストが復活しなかったのなら、

わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」と語り、復活なくしてキリスト教信仰は成り立たな

いことを指摘しています。復活を信じることができるようになるということは、キリスト者として生きていくことができるよう

になるということです。信仰者であり続けていくために、神様を信じ続けていくために、共にパンを裂き食事をするという

ことは必要不可欠であった訳です。

 食事とは、単に物を食べることを指してはいません。聖書が語る食事は、パンを裂くという言い方で表されています。

パンを裂くということは、裂いたパンを分けて食べるということです。一人でパンを食べるのであれば、わざわざパンを

咲く必要はありません。聖書はパンを裂くという言い方によって、食事とは複数の人が一緒にするものと捉えています。

そのような行為を当初から弟子たちは、すなわち教会は大切に守ってきました。共に飯を食うことを通してこそ、自分た

ちの信仰を守り、自分たちの信じるところを証できると信じていた訳です。教会の歴史の中で、この食事が次第に形を

変え、儀式化されて、聖餐式という姿になっていきます。教会は、このような礼拝を、今まで2000年にわたり、大切に

守り続けてきました。その意図するところは、教会は単に聖餐式を行い続ければ良い、そしてクリスチャンは聖餐に与

り続ければ良いということではありません。皆で一緒に物を食べるということ自体が、教会であることにとって、あるいは

クリスチャンであることにとって、大事なことだからでした。食事、あるいは物を食べるといことは、人の命の営みです。

人が命を維持していく上に、すなわち生きていく上に欠かすことのできないことです。逆に言えば、食事をしない、あるい

は物を食べないということは、死ぬということを指しています。キリスト教は、一緒に食事をするかしないかということが、

人の生死にかかわるほどに人が生きていく上で大切なことであるというメッセージを語っています。そのことを如実に表

しているのが、イスカリオテのユダの行動です。ユダは、イエス様が十字架にかかる前夜に行われた最後の晩餐の席

上にいました。そこでイエス様が「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と語

り、パン切れを浸してイスカリオテのシモンの子ユダに渡しました。そしてイエス様は「しようとしていることを、今すぐ、し

なさい」とユダに語りかけます。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行きました。こうしてユダはイエス様と11人の

仲間を離れ、最後の晩餐の席から出て行きました。ユダは一緒に食事をすることを放棄した訳です。聖書にはその

後、「夜であった」と書かれています。まさに、ユダは仲間と一緒に食事をすることを止め、夜の闇の世界へと向かうこと

になります。ユダが向かった闇の世界は死へと通じていました。その後、イエス様は十字架上で死に、彼自身も首をつ

って死にました。共に食事をすることを放棄したことにより、ユダとイエス様との関係は断絶しました。ユダの、このよう

な出来事は、一緒に食事をしないことが、人の死、いわば信仰者としての死を意味することを表しています。

 先週、全生園を訪問してきました。全生園の人たちこそ、一緒に食事をすることを拒否された人たちであり、一緒に食

事をするところからはじき出された人たちです。ハンセン病を患ったということによって、あるいは遺伝するという根拠の

ない風評によって、ともに食事をすることを拒絶されてきました。全生園のある方が以前言っていたことを思い出しま

す。4〜50年前のことを振り返って、「訪問してくれた人が食事をしていってくれなかった」と残念そうに、また無念そう

に、またあきらめの思いをもって語っていました。この出来事は人と人との交わりの断絶を意味しています。それが、人

の死を表しています。それほどに、一緒に食事をするということは人であることにとって大切なことであり、お互いの命

の問題とつながっているということです。一緒に食事をしないということは、あるいはできないということは、物理的には

生きていても、本来の人のあり方からすれば死んでいるのと同じです。

 結局、キリスト教が言おうとしていることは、誰とでも、どのような人とでも、クリスチャンであろうがなかろうが、すべて

の人と一緒に飯を食える関係を築いていこうということです。教会が2000年にわたり聖餐式を大切に守り続けてきた

のも、クリスチャンを増やそうと願うのも、すべてこのような意味においてです。イエス様が「互いに愛し合いなさい」と弟

子たちに残した言葉にも、そのような内容があります。誰とでも、どのような人とでも、そっぽを向くことなく食卓を囲み、

一緒に食事をすることができたとき、そこに復活したイエス様が現われているのだと言えます。それでこそ、わたしは復

活を信じている、つまりキリスト教の信仰者であると言えるのだと思います。しかし、わたしたちの努力では、そのような

域に達することができません。わたしたちはまだその途上にあることを覚え、神様の助けを祈りつつ、信仰の歩みを進

めていくこと、それが信仰者としての生き方なのだと思います。

トップへ
トップへ
戻る
戻る