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聖霊降臨後第14主日 特定15 マタイによる福音書15:21−28
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、
ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答
えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますの
で。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、
女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬に
やってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン
屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになる
ように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
今日の福音書は、悪霊に苦しめられていた娘がイエス様によって癒されるという奇跡の話でした。イエス様はガリラヤ
湖の町を去り、地中海沿岸の地にあるティルスとシドンの地方へと向かいました。そこは異邦人が住む土地でした。す
ると、イエス様の許に、一人の異邦人の女性が近づいてきました。ユダヤの掟によると、異邦人は罪人であり、交わる
ことが禁じられていた人たちでした。彼女の娘は悪霊に取りつかれ、苦しんでいました。彼女はイエス様に娘の癒しを
求めました。イエス様は、その求めに対して最初は沈黙していました。彼女にしてみれば、その対応は、願いが聞かれ
たのだか聞かれなかったのだか分からない、まるで無視されたかのような反応でした。次にイエス様が表した対応は、
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という答えでした。つまり、自分はユダヤ人
を救うためにのみ遣わされたのであって、異邦人のあなたを救うためには遣わされたのではないという、はっきりとした
拒絶でした。三回目に表したイエス様の対応は、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」という答えでし
た。これも、同様に、イスラエルの民に与えられる筈の恵みを異邦人であるあなたに与えてはいけない」という、あから
さまな拒否でした。イエス様は、この異邦人の女性が求めた、娘を癒して欲しいという切なる願いに対して、無視、拒
絶、拒否という冷たく厳しい仕方で応じました。このようなイエス様の対応は、今までイエス様が取ってきた行動からす
ると、少し不思議に思えます。例えば、イエス様は過去に中風で寝込んでいる百人隊長の僕の病を癒したことがありま
した。百人隊長は異邦人であり、罪人であり、交わりをしてはいけない人でした。しかし、イエス様は、そのような掟に関
係なく、百人隊長の求めに応じています。あるいは、12年間も出血が止まらないという病にかかっている女性が、イエス
様の衣の房に触れたことにより癒されたことがありました。この女性も病者という意味において罪人でした。しかし、そ
のような罪人のレッテルを貼られた女性にもイエス様による癒しの奇跡は起こりました。その他にも、目が不自由な
人、口の利けない人、病者などが癒されています。なぜ、イエス様は今回のカナンの女性の場合においてのみ、その求
めに対して即座に応じることなく、あえて無視や拒絶や拒否という態度を示したのでしょうか?その理由は、聖書に書
かれてはいないので、分かりません。ただ、分かることは、そのようなこともあり得たということです。イエス様は、同じ異
邦人でありながらも、百人隊長の求めには即応したけれども、カナンの女の求めには即応しなかったということがあっ
たということ、また同じ罪人と称される人でも、イエス様により長血を患う女性は直ちに癒されたけれども、悪霊に苦し
められていた娘は直ちには癒されなかったということがあったということです。つまり、癒しを求める側から見れば、整
合性がつかないと思えるようなことも、イエス様において起こっていたということです。
そのように、不平等とも受け取れるイエス様の対応に対して、カナンの女性はイエス様に批判も文句も加えませんで
した。カナンの女性は、イエス様による無視や拒絶や拒否にも遭うことなく、百人隊長の求めが聞き届けられていた事
実を、また同じように12年間も長血を患っていた女性が癒されていた事実を知っていたかどうかは分かりません。しか
し、噂で聞く限りにおいても、イエス様が多くの病人を癒し、またその周囲の人の思いを聞き届けてくださったという事実
を知っていた筈です。だからこそ、この女性は、イエス様のところに自ら出て行って、自分を憐れみ、娘を癒してくれるこ
とを求めたのだと思います。ところが、イエス様から無視と拒絶と拒否に遭うはめになりました。どうじて自分だけは無
視されるのか、あの人は癒されたのにどうしてわたしの娘はだめなのか、あの人の思いは聞き届けられたのになぜわ
たしの思いは拒絶するのかという苛立ちや不満を抱いてもいたしかたない中で、彼女はそれを口にしませんでした。彼
女は、そのような主張をすることなく、イエス様の前にひれ伏して「主よ、どうかお助けください」と求めました。また、あな
たからの恵みのおこぼれにでも与ることができる筈ですと訴えました。彼女は、イエス様の不公平な態度を引き合いに
出して責めるのではなく、またイエス様に整合性ある態度を要求するのでもなく、ひたすらイエス様に助けを求め、恵み
を分けてくれるようにと願いました。
このような彼女の姿勢は、イエス様と自分との位置関係をよくわきまえていたからこそ、取り得た態度なのだと思いま
す。つまり、イエス様が自分を無視しようが拒否しようが拒絶しようが、そのようなイエス様の態度をどうこう訴えること
ができるような立場に、自分はいないことを知っていたということです。イエス様が平等性に欠くような行動をしても、あ
るいは整合性のつかないような態度を取っても、イエス様に不満を抱き、その姿勢を正すよう訴え出ることのできるよう
な存在ではないことを理解していたということです。たとえ自分には理解できなくとも、あるいは不満に思えようとも、自
分はイエス様の前にあっては、ただただひれ伏すのみの存在であり、自分が節に求めることを必死になって願う立場
にしかいないことを、彼女はよく知っていました。イエス様は最後に、「「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い
どおりになるように。」と語りました。「あなたの信仰は立派だ」とイエス様が賞賛した、その信仰とは、このカナンの女性
が示した態度にあると思います。すなわち、神様は人間などが理解しつくことのできない存在であり、人の考える正しさ
などを主張することのできない方であるという、神様と自分との間の本来あるべき関係をよくわきまえていたという姿で
す。この姿をして、謙遜というのだと思います。
わたしたちも、神様にいろいろなことを願い求めます。その願い求めの内容に良し悪しはありません。しかし、それが
聞き届けられたか否かは、適ったかどうかは、願いどおりになったかならなかったかは、そのときどきによって異なると
思います。あるときは、まるで神様が沈黙を守っているかのように何も起こらなかったこともあるでしょう。あるときは、
神様に無視されていると思い悩んだこともあったでしょう。あるときは、神様が拒否し拒絶していると憂いを抱くこともあ
ったでしょう。だから、神様などいないと訴えたくなるときもあったでしょう。だから、神様などに頼ること自体意味のない
ことであると不信になったこともあったと思います。しかし、そのような人間の反応を思い返すと、一体どちらが神様なの
かと思わされます。神様を自分の思い通りにさせようとする自分は、一体何者なのでしょう?神様を自分の願い通りに
動かそうと思うところに、神様に対する不満や憂いや批判が生まれてきます。これは、人を自分の願い通りに動かそう
とするところに、相手に対する文句や不信や不和が生まれてくるのと同じです。
カナンの女性がイエス様に対して表した態度は、わたしたちに神様に対しても、人に対しても、またあらゆる事柄に対
しても、謙遜であることを教えています。そして、そのために、わたしたちは何よりも神様に対しての位置関係をわきま
え知ることが大切です。それは、神様に対して、また神様が引き起こす応答に対して、それがたとえ望み通りとは行か
ずとも、それにひれ伏し、それを受け入れるという姿勢であり、同時に聞き入れられるか否かに関わりなく、ひたすら願
い求め訴える、すなわち神様との対話を継続させるという姿勢です。神様が聞き届けてくださることを信じ、神様が恵み
を与えてくださることを信じ、あきらめずに神様に願い求める姿、いわば神様とのつながりを、そこに何が起ころうとも、
そこに何も起こらなくとも、持ち続けることが、すなわち神様とのつながりを人の側のいかなる理由をもってしても切らな
いことが、イエス様の賞賛した立派な信仰なのだと言えます。その信仰に支えられて、人に対しても、またあらゆる事柄
に対しても、謙遜であることができるのだと思います。
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