2月24日の説教



大斎節第3主日 大斎講話
大森明彦執事(八王子復活教会牧師補)


加藤司祭による本日の説教原稿より

 今日選ばれている福音書は、新共同訳聖書の表題によれば「イエスとサマリアの女」というところです。舞台はサマリ

アの町にあった井戸端でのことです。イエス様一行はユダヤを去りガリラヤへと向かっていました。つまり、パレスチナ

の南から北に向かって旅する途上にありました。その途中にサマリア地方があり、シカルという町に入ったところで、イ

エス様は旅の疲れを癒すために井戸端に座っていました。時は正午頃のことでした。弟子たちは、昼食を買うために町

中に行っていました。井戸端にはイエス様だけがいました。そこにサマリアの女が水を汲みにきました。イエス様はその

女に「水を飲ませてください」と頼みました。すると、女は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲

ませてほしいと頼むのですか」と問い返しました。そのように女がイエス様に問うた理由は、ユダヤ人がサマリア人とは

交際しないことになっていたからというものでした。

 このようなユダヤ人とサマリア人との間の反目の発端は紀元前8世紀に遡ります。当時イスラエルは北イスラエルと南

ユダという二つの王国に分裂していました。紀元前721年、北イスラエルはアッシリアという大国によって滅ぼされまし

た。その際、アッシリアが取った北イスラエルへの政策は、北イスラエルの指導者たちをアッシリアに捕囚として連れて

行き、アッシリアに住んでいた住民を北イスラエルに移民させるというものでした。このことによって、北イスラエルに残

っていたイスラエルの民と移り住んできた異民族との間に生まれた人びとがサマリア人でした。このような背景をもと

に、のちのち、南ユダの血筋や伝統を引くユダヤ人たちは、サマリア人のことを、ユダヤの血を穢したものたちとして嫌

うようになりました。また、サマリア人の信仰が移り住んできた異民族の宗教と混合するようにもなり、ユダヤ人はサマ

リア人をユダヤの伝統的な信仰から離れた人たちと見なすようにもなり、エルサレム神殿から閉め出すようにもなりま

した。そして、締め出されたサマリア人たちはゲリジム山に自分たちの神殿を建て聖所とし拝むようになりました。この

ようにして、ユダヤ人はサマリア人を嫌い、差別し、彼らと交わりを持たないようになり、また聖所も別々なところを定め

るようになりました。

 サマリアの女がイエス様に「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのです

か」と問い返した言葉の中には、このようなユダヤ人とサマリア人との血統と宗教に基づく歴史的な対立が、その背景

にありました。であるが故に、サマリアの女にとっては、イエス様の言動が非常に不思議に思えました。すなわち、サマ

リア人の女にしてみれば、嫌われている筈のユダヤ人から、なぜ声をかけられ、また頼みごとをされるのかがまったく

分からなかった訳です。なおかつ、サマリアの女にとっては不思議なことがまだありました。それは、弟子たちが食べ物

を買いに行った後イエス様のもとへ戻ってきたときの様子に、その端緒があります。つまり弟子たちは、イエス様が女

の人と話しておられるのに驚きを抱きました。この驚きの原因は、当時の慣習、つまり男性が女性に対して公衆の面前

で声をかけるということは非常識なことであるというものです。井戸端というのは、いろいろな人が家事に給するための

水を汲みに集まってくるところです。単に水を汲むだけの場所なのではなく、そこでは集まってきた人たち同士で会話も

交わされるような社交の場です。そのようなところで、イエス様が見ず知らずの女性と話をしているのに弟子たちは驚

いた訳です。また、一人の男性から声をかけられたサマリアの女性にしてみれば、声をかけたイエス様という人が、あ

る意味では非常識な人であり、また不思議な人であると感じたことは確かだと言えます。

 さて、この物語を解く鍵になる言葉は、このような出来事が起こった時刻が正午ごろのことであったとわざわざことわ

っていることにあります。井戸端に水を汲みに来るのはたいてい朝です。その日一日の炊事などに必要な水を朝、女

性は汲みに来るのが常識です。恐らく、朝の井戸端は、そのような女性が集まり、ごったがえして騒々しい会話がなさ

れている筈です。しかし、このサマリアの女は昼ごろ水を汲みに井戸端にやってきました。朝、来ることができない事

情、すなわち、家庭の炊事をまかなう普通の女性たちが集まるところに顔を出せない、あるいは出したくない理由が、こ

のサマリアの女性にはあったことが想像できます。その理由が、後でイエス様と会話するところに出てきます。イエス様

はサマリアの女に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と極めてプライベートなことを尋ねます。すると女は「わ

たしには夫はいません」と答えます。そしてイエス様は「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには語五人

の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と指摘します。つまり、この女性は過去に五人の夫、すなわち五回

結婚し、それぞれの人と別れているということです。なぜ別れるようになったか、その理由は書かれていないので分かり

ません。死別なのか、身持ちが軽いのか、男性の横暴だったのか、それは分かりません。そして、今は、同棲している

男性がいるということです。この辺りが、彼女が井戸端に正午ごろに行った理由です。きっと、彼女は、朝女性が集まる

井戸端に行けば、周りの女性たちから哀れみの視線を浴びるのが嫌だったのかもしれません。あるいは、話しかけて

ももらえず無視されるのに耐えられなかったのかもしれません。あるいは、白い目で見られ毛嫌いされ皮肉を言われる

のが辛かったのかもしれません。いずれにしても、彼女は井戸端を囲む普通の主婦たちと一緒にはいづらいという思

いや、またそのような人の集まりを避けたいという思いを心に持っていたということです。つまり彼女は、周りの人びとか

ら疎外感を感じ、一人ぼっちだったということであり、その寂しい思いを埋めるために、今の男性と同棲しているのかも

しれません。イエス様は、この女性がこのような思いを持っているということを、正午ごろに井戸に水を汲みにきたという

出来事を通して、何も言葉を交わさずともすべてが分かった、あるいは感じ取ったのだと思います。だからこそ、イエス

様は、ユダヤ人がサマリア人と交わることをしないという常識にも、男性が社交の場で女性に声をかけることをしないと

いう慣習にもこだわらずに、彼女に声をかけました。イエス様にとっては、この世の常識や慣習よりも、寂しく辛い思い

を持ち孤独で自暴自棄になっている目の前にいる人の方が優先された訳です。

 そこでイエス様は彼女に井戸の水にひっかけて、生きた水、永遠の命に至る水、渇くこともなく、また汲みにくる必要

もない水を与えようと語ります。彼女は、それを聞き、「その水をください」と求めます。まるで、イエス様自身が、女の思

いをすべて受けいれ分かっている中で、その女にその言葉を言わせているように導いています。その水を求めた彼女

は、恐らくイエス様の語る真意を分かってはいないと思います。つまり、イエス様の語る水がイエス様自身であるという

ことに気づいてはいないと思います。しかし、「その水をください」とイエス様に願った彼女は、枯渇している自分自身に

は気づいていました。寂しく辛い思いを持ち孤独で自暴自棄になっている自分自身を、癒し、慰め、共にいてくれる存在

を欲していました。そして、次第に、そのように枯渇している自分を潤してくれる存在がイエス様であることに気づくよう

になりました。そして、彼女は変化を遂げます。つまり、彼女は水がめを置いて町に行き、人びとに『さあ、見に来てくだ

さい。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』と言って知

らせました。それまで、サマリアの女は、人びとが集う井戸端に行くことが嫌で避けていました。しかし、イエス様に出会

い、会話を交わすことにより、人びとがいる町中に出向き、イエス様を伝えるものへと変えられました。180度の転換が

彼女の中に生まれました。

 わたしたちすべての人間には、サマリアの女がイエス様に発したように「その水をください」という切なる願いを持って

います。人生に疲れたり、嫌なことがあったり、蔑まれるようなことがあったり、疎外感を感じるようなことがあったり、人

目を避けたくなるようなことがあったり、それゆえ、寂しく辛い思いを抱き、孤独を感じ、また自暴自棄になってしまうこと

があります。そして、そのような自分を分かって欲しい、そのままの自分を受け入れて欲しいという渇きを持ち、それが

満たされたいという深い願いを持っています。イエス様との出会いは、そのようなわたしたちに知らず知らずの内に変

化をもたらします。そして、自分は独りではないと実感させ、どのような自分であろうともそこに尊厳を抱かせ、自らの内

にある尊い人格に気づかせ、ありのままの自分でどのような人の前にでも出ることができる勇気と力を与えてくれます。

神様との出会いは、そのような転換を自らに生み、また人びとをも神様との出会いに導く働きを生むということを、今日

の福音書の物語はわたしたちに教えています。

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