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復活節第4主日
「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。」そして「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」という
言葉が、今日の福音書の中に書かれていました。この言葉を語った際、イエス様はエルサレムにいたと推測されます。
イエス様は自らを指して羊の門と語っています。当時のエルサレムには少なくとも7〜8つの門があったようです。その
中の一つに羊の門と称する門がありました。その門からは神殿に献げられる犠牲の羊が連れて行かれました。イエス
様は自らをその羊の門になぞらえて、わたしは羊の門であると語ったようです。
その羊の門の内側の世界とはどのような世界であったのでしょうか?イエス様が自らを指して羊の門と言った、その
エルサレムの町をダニエル・ロブスの「イエス時代の日常生活」という本から思い描いてみたいと思います。イエス様が
生きていた時代のエルサレムの人口は約10万人と言われています。ローマが約100万人の町であったことを考える
と10分の一の小さな町といえます。城壁に廻らされた周囲は約4キロ半ありました。昭和記念公園のサイクリングロー
ドが14キロであることを思うと小さいと言えます。城内の北東に、豪華な神殿があり、その他に宮殿、大邸宅などがあ
りました。神殿は町の最も高いところに冠のように巨大な建物が位置していました。その建物は比べるものがないほど
に美しく豪華にそびえていました。王の居城であった宮殿は大理石で造られ、百室にわたる部屋と巨大な宴会場があ
り、美しい庭園も広がっていました。そのような絢爛豪華なところがある一方、他の町並みは家々が密集して無造作に
並び、込み合い重なり合って建っていました。また、その中に小さい広場がいくつもあり、それぞれは職業の名前で、例
えば屠殺者の広場、織工の広場、魚屋の広場のように呼ばれていました。つまり、同業者同士が同じ地区に住んでい
ました。それらの家々や広場を縫うように路地が走っていました。その路は荷を背負ったロバが行きかうことが困難な
ほどに狭い石畳の道が曲がりくねり、上り下りしていました。その上、路地には屋台が並び、行きかう人がぶつかり合
い、ろばが石畳をたたく音ややかましい叫び声や口論が聞こえていました。また、神殿に犠牲として献げられる牛や羊
も行きかい、鳴いていました。その他、客を誘う商人の呼び声、十字架をかつぐ罪人の行く道をあけさせる護送人の叫
び声、鋳物屋の金槌の音、詩編を唱える祈りの声、儀式を告げるトランペットの音などなど、町は喧騒の渦の中にあり
ました。そのような街中には様々な臭気も漂っていました。人や動物の汚物の臭い、パンを焼いたり小麦を焼いたりす
る臭い、神殿の丘で犠牲の獣が焼かれる焦げた臭い、またその臭いを消すための香料の臭い、そしてそれらが混ざり
合った臭いが立てこもっていました。また、祭りの日には様々な地域から巡礼者が押し寄せ、町に入りきらないほどの
人と動物が町中を埋め尽くしました。過ぎ越し祭には20万の子羊を連れてきたほどの人が溢れかえっていました。地
方から巡礼に来た離散していたユダヤ人はその服装でどこから来たのかが分かりました。黒い長い衣をまとっている
のがバビロニアのユダヤ人、胴着に色とりどりのズボンをはいているのがフェニキアのユダヤ人、やぎの毛の外套を
着ているのがアナトリア高原のユダヤ人、金銀で錦織した絹の赤い服を着ているのがペルシアのユダヤ人でした。
このようにして概観すると、エルサレムの様子は、城壁に囲まれた狭い範囲の中で、神殿を中心に据え、王様が贅沢
に暮らし、民衆は押し合いへし合いしながら喧騒とした中で暮らしていたようです。そして、交通の要所として、種々雑多
な人びとが行きかい、諸外国の様々な商品が売り買いされていた国際都市でもあったようです。そのような中で、イエ
ス様は自らを指して「わたしは羊の門である」と言い、また「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」と
語りました。そして、その羊の門とは、神殿に献げられる羊が連れて入られる門でした。ここで、イエス様は、自らを神
様に献げられる犠牲の羊としてイメージしていたのだと思います。このように語ったイエス様は一体何を言おうとしてい
たのでしょうか?
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