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加藤司祭による本日の説教原稿より
大斎節第4主日
今日の福音書は、イエス様が生まれつき目の見えない人を癒したという奇跡の話と、それに続いてファリサイ派の人
びとが、その事情を調べたという話でした。出来事は安息日にエルサレムで起こりました。イエス様は通りすがりに生ま
れつき目の見えない人を見かけました。同行していた弟子たちは、その人を見てイエス様に「この人が生まれつき目が
見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか」と尋ねます。この問いから、当時、
目が見えない人、今の言葉で言えば障害者は、本人か、またはその近親者が神様に罪を犯したから、障害を負ったと
信じられていたことが分かります。つまり、罪を犯したことに対する罰として神様が障害を与えたという捉え方です。そこ
には、因果応報という考え方に宗教的な信心が加えられたという捉え方があるようです。このような信心は、何も2000
年前に限らず、今でも、わたしたちの中に厳然とあり、人の心を左右しています。
因果応報とは、そもそも、過去に起こしたある行動が、その後の事象を引き起こしたという捉え方を指しています。つま
り、過去の行動と現在の事象との結びつきを説いているのが因果応報の意味であり、本来はその結びつきに善悪の
尺度が含まれてはいません。例えば、良い行いが結果的に悪い事象を生んだとしても、行動と結果が結びついている
という意味で、因果応報と捉えます。しかし、その結びつきを、ある種の宗教性をもって解釈し、良い行いが良い結果を
引き起こす、または悪い行いが悪い結果を引き起こすというように、因果応報を倫理的に捉えるようになります。また、
そのような捉え方を逆転させて、良い結果をもたらしたのは良い行動をしたからである、あるいは悪い結果をもたらした
のは悪い行動をしたからであると、因果応報という言葉を解釈したりします。そして、人生において不幸や不運に見舞
われたときなど、すなわち悪い事象が起こった際に、その原因を過去に取った悪い行動にあると教え導き、その原因と
なるもの、すなわち罪深さを払拭するために、祈祷やお払いをしたり、またそれに類する信心業に励むように勧めたり
します。このような、明らかに宗教性を背景にした捉え方は、現代に限らず、イエス様の弟子たちが発した言葉からも
分かるように、時代を越え、場所を越えて存在していると言えます。
不運や不幸に見舞われたときというのは、当然人の心が萎えて弱っているときです。それだけに、その原因となってい
るものを払いのけて元気に、そして幸せになりたいと願い求めるのは人の常です。しかし、不運や不幸は偶発的に起こ
ることが多く、またそれらの出来事に直接起因する事柄を見つけ出すことはなかなか難しいものです。しかも心が弱っ
ている人にとっては、それを探し出す元気など沸くはずもありません。であるが故に、その原因となるものを、簡潔に、
直接的に、分かりやすく指摘し教えてくれる人や教えに惹かれます。苦しい状況から何とか手早く救われたいと思うが
ゆえに、教えが単純であればあるほど心が引かれるわけです。そして、その人や教えの背後に権威的なものや絶対的
なもの、すなわち神様の存在やその神様の罰や審きをちらつかせれば、心の萎えている人は、速く元気になりたいと、
またこれ以上不幸や不運に見舞われたくないと、その人や教えを簡単に信奉するようになります。野心的な宗教家で
あれば、そこに目をつけ、いくらでも信奉者を増やすこともできるでしょう。どのような宗教であれ、その教えは常に人の
弱さと隣り合わせになっているものであり、それゆえに、弱くなっている人ほどその教えを信じ安く、また宗教に入信し
やすいと言えます。だからこそ、人が宗教を信奉する際には、とても注意が必要であると言えます。つまり、人の弱さを
食い物にする宗教や宗教家が存在するということです。すなわち、人の弱さを商品として扱うことにより潤おうことを目
指そうとする宗教教団があるということです。しかも、その教えや宗教家や教団が、人の弱さと隣り合うという宗教本来
の姿を取っているだけに、人を食い物にしているのかどうかが非常に見分けづらいのも確かです。
さて、弟子たちが生まれつき目の見えない人に「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからです
か。本人ですか、それとも、両親ですか」と問うたことに対して、イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯
したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日の
あるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」と答えまし
た。ここで、イエス様ははっきりと「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」と、生まれつき目が見
えないことと罪との結びつきを否定しました。それは、すなわち、生まれつき目の見えないことが罪に基づく神様の罰で
あるという信心を否定したということです。また、良い行動が良い結果をもたらす、あるいは悪い行動が悪い事象をもた
らすという考え方を否定したということです。それは、人がそのような信心や考え方に左右されたり影響を受けたりする
必要はないということです。つまり、人が不運や不幸に遭遇しても、罰が当たったとか、審きがくだったとか、自分の過
去の行状にああだこうだと悩んだり詮索したりする必要はないということです。それゆえに、その原因を指摘し、その払
拭の方法を教える宗教を信奉するなということです。そして、イエス様は「神の業がこの人に現れるためである。」と、そ
の人が生まれつき目が見えないことの理由を語ります。しかも、この神の業は世の中を照らし出し、周りを明るくし、周
囲の人びとに温かさを感じさせるような光の業であると語ります。そして、イエス様は目の見えない人に対して癒しの奇
跡を行います。すなわち、地面に唾をし、その唾で土をこね、それを道端に座っている、その人の目に塗り、「シロアム
の池に行って洗いなさい」と言います。そこで、その人は池に行って洗うと、目が見えるようになりました。
今現代において、イエス様が生まれつき目の見えない人に対して行ったような、奇跡という形での神の業に遭遇するこ
とは、まずないと思います。しかし、目の見えない人、いわば障害を負う人たちや病者を通してイエス様が語った世の光
としての神の業に出会うことはあるように思います。わたしは、そのような神の業に全生園で出会いました。全生園は
かつてハンセン病を負い、今では完治した療養者が住んでいる施設です。そこに聖公会の礼拝堂があり、信徒が信仰
生活を営んでいます。毎週日曜日には午前9時から聖餐式が行われ、療養所に住んでいる人びとが集ってきます。信
徒は皆、かつて背負ったハンセン病のゆえに、さまざまな障害を担っています。その中に、失明された男性がいまし
た。お年頃はその当時70代後半位の方でした。その方は毎主日礼拝に出席されていました。目が不自由なので、当
然どなたか介助者に連れられていらしていました。ある日曜日、わたしが車で礼拝堂に到着したとき、その方は90歳
真近かのお婆さんの信徒に連れられてきていました。その方は、今はもう神様の御許に召されてしまいました。90歳
近い小柄で足取りのおぼつかない信徒が、右手に白い杖を持ち、体格のがっちりとした目の見えない70歳代の信徒
の左腕を持ち、一緒に連れ立って教会の礼拝に出席するために歩いている後ろ姿は、まさにこの世を照らす神の業そ
のものでした。足が弱ってきたお婆さんの信徒にしてみれば、目が見えないけれどもがっちりとした体格の信徒は、歩く
支えになっていました。目が見えない信徒にしてみれば、老齢で足が弱っているとはいえ、お婆さんの信徒は、歩いて
いく上での目になっていました。そして、お互いに不自由さをかかえているので、その歩みの歩調は、二人にとって丁度
良いものになっていました。90歳の不自由者が70歳の不自由者の目になり、70歳の不自由者が90歳の不自由者
の足になって、連れ立って歩く後姿は、とても美しく、うるわしく、ほほえましく、輝いていました。そして、その二人を礼拝
堂の玄関で、「よく来たね。ご苦労さん」と言って声をかける信徒がいました。それを見ていると、私自身が本当に明る
く、温かくされました。イエス様による癒しの奇跡が当人には起こらずとも、確かに、神の業が目の見えなくなった一人
の信徒を通して周囲に現されていると感じました。神の業は、障害や病気を背負う人に直接的に起こるのではなく、そ
の人たちを通して、周りの人たちに現される訳です。そして、障害や病気を追う人たちと周りの人たちとが、結び合わさ
れていきます。
今日の福音書には、目の見えない人がイエス様により癒されたという話が書かれていましたが、この福音書が言い表
したいことは、いろいろな意味での不自由さを抱えている人についてのことです。それは、肉体的な不自由さもさること
ながら、精神的な不自由さについてでもあります。つまり、目や足や、手や腰などが不自由になったとうことのみなら
ず、不幸や不運などに見舞われ、辛さや涙や苦しみの中にあって心の自由さ、あるいは解放感を失ってしまった人に
ついてです。往々にしてそのようなとき、わたしたちは、神様からの罰が当たったとついつい考えさせられてもしまいま
す。あるいは、神様などいないと、また神様の働きかけなどないと、神様を否定し、神様が最も遠い存在になっていると
きと言えるかもしれません。しかし、実はそのようなときこそ、神様が最も近いとき、また神様からの恵みを最も受けや
すいときであるということです。心も体も元気なとき、健康なとき、不自由さがないとき、快調なとき、というのは、自分以
外のものの力や助けなど借りることなく、何でも自分の力でできると思い、事実自分で何でも出来てしまいます。である
がゆえに、神様の力や助けなどに寄り頼む必要がなく、それゆえ、そこには神様の業が現れ出る余地がありません。し
かし、弱っているとき、また不自由さがあるときというのは、神様からの働きかけを阻止する気力も元気もないときであ
り、自分以外のものからの働きかけを受け入れざるをえない状態です。であるがゆえに、神様からの業が最も現れや
すいときであり、それゆえ周りの人たちは神様の業に最も気づくことができるときといえます。まさに、弱くなっていると
き、心も体も不自由なときというのは、世の光としての神様の業が現れるときであり、「貧しいものは幸いだ」という言
葉、また「弱いときにこそ強い」という言葉の真意が現れ出るときと言うことが出来ます。
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