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加藤司祭による本日の説教原稿より
大斎節第5主日
今日の福音書は、死んで墓に葬られたラザロをイエス様が復活させたという奇跡の話でした。この話は4つの福音書
においてヨハネによる福音書にのみ出てくる話です。そのヨハネ福音書の特徴として、イエス様による奇跡の話が他の
共観福音書よりもわずかしか記されていないということが挙げられます。ヨハネ福音書には7つの奇跡物語しか書かれ
ていません。つまり、ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えたという最初の奇跡、次にカファルナウムの役人の息子を癒
したという奇跡、三つ目がベトザタの池で38年間病気により苦しんでいた人を癒したという奇跡、四つ目が5千人以上の
人びとを5つのパンと2匹の魚で満腹させたという給食の奇跡、五つ目がガリラヤの湖の上を歩いたという奇跡、六つ目
が生まれつき目の不自由な人を癒したという奇跡、そして最後がラザロを復活させたという奇跡です。この奇跡以後、
ヨハネ福音書にはイエス様による奇跡の話が出てきません。つまり、ヨハネ福音書において、ラザロを復活させた奇跡
の出来事は、イエス様の生涯を辿る中で一つの節目になっていると言えます。どのような意味での節目かと言うと、そ
れは、今日の福音書に引き続いて出てくる記事に表されています。ラザロの復活を目撃した人たちの一部は、ファリサ
イ派の人たちのところへ行き、事の一部始終を伝えます。それを聞いた祭司長たちやファリサイ派の人たちは最高法
院を召集します。そして「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信
じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」と議論します。ユダヤ教の指導
者の人たちは、イエス様がたびたび奇跡を行い、民衆に評判を得ている状況をよしとはしていませんでした。彼らは、
民衆がこのような奇跡を行うイエス様を政治的メシアと信じ、そのイエス様を中心にしてユダヤで反ローマの暴動を起こ
すようなことになると、ローマが黙って見過ごしにはしないと考えていました。そして、ユダヤを鎮圧するためにローマが
やってきて、神殿も壊され、国民も滅ぼされるような事態になることを恐れました。それは、すなわち、ユダヤの指導者
たちにとっては、自らの指導的立場が危うくされ、地位も名誉も財産も、また信仰も失うことになりかねないと考えられ
たからでした。そこで、大祭司カイアファは「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民
全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」と語ります。つまり、国民全体が土地や財産
や信仰を失うことと、一人の人間、すなわちイエス様が命を失うこととを計りにかけ、全体を救うために一人を犠牲とす
ることの方が得策であると進言します。このような最高法院での議論の中から、「この日から、彼らはイエスを殺そうと
たくらんだ。」と聖書に書かれているように、イエス様を亡きものにしようということが決定されました。つまり、さまざまな
奇跡をイエス様は今まで行ってきた訳ですが、その最後に行なった奇跡、つまり、死んで墓に葬られたラザロを復活さ
せたという奇跡は、イエス様が十字架上の死へと向かう決定的な一打になった訳です。その意味で、ラザロを復活させ
た奇跡の出来事は、イエス様の生涯の中での一つの大きな節目になった出来事でした。
さて、このラザロを復活させた話が、わたしたちに何を語ろうとしているのか、それを探る上で、この話のクライマック
スのところに目を留めてみたいと思います。つまり、イエス様がラザロの葬られている墓の前に立った場面です。墓は
洞窟であり、入口は石でふさがれていました。イエス様は「その石を取り除けなさい」と呼びかけました。すると、ラザロ
の姉妹のマルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」と答えます。マルタのこの答えから彼女の心の内
が想像できると思います。ラザロが死んで、死体を墓に収め、もう四日が過ぎているという現実に立つマルタにしてみれ
ば、石を取り除けてみても何にもならないという絶望的な思いや、この世の知識や常識から考えれば無駄なことという
思いが心に浮かんだ筈です。また、一度死んだ者が生き返る筈もないという固定観念にかられていたことと思います。
あるいは、愛する兄弟を失い悲嘆の中にあるマルタにとってみれば、イエス様の言葉は慰めにもならなかったでしょう。
そして、兄弟ラザロとの関係も死をもって遠く隔たってしまったとあきらめる気持ちもあったかもしれません。そのような
思いを抱くマルタに対して、イエス様は「もし信じるなら、神の栄光が見られる、と言っておいたではないか。」と迫りま
す。そして、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれると、ラザロが墓から出てきました。そして、イエス様は人びとに
「ほどいてやって、行かせなさい」と語りました。
洞窟の墓の中に納められたラザロと、その墓の外にいるマルタとの間には、死者と生者とをはっきりと分ける石があ
りました。死の世界と命の世界とは、墓穴を塞ぐ石によって行きかうことが妨げられていました。そのような墓の入口に
据えられていた石の存在は、兄弟ラザロを亡くしたマルタの心の中にもあったように見受けられます。イエス様が、取り
除けなさいと呼びかけた石は、マルタを初めとする、わたしたち人間が心の中にずしりと持っている石のようです。つま
り、石など取り除けてみても、死者がどうにかなる筈がないし、そのようなことをしても何の意味もないという思いです。
それは、まるで、自分はすべてのことを知り分かっているかのように思っている錯覚の石です。あるいは、自らの経験
や知識に基づき、これはこうだ、これはこうなる、と勝手に決め付けてしまっている偏見の石です。あるいは、奇跡など
起こり得る筈もないと思う固定観念の石であり、不可能を目の前にした絶望の石です。あるいは、すべてを神様の前に
委ねることができない不信の石です。このような石の心を、イエス様は取り除けなさいと仰っているのだと思います。そ
して、周りの人たちの、そのような錯覚や偏見や固定観念や絶望やあきらめや不信によって縛られ、閉じ込められてい
たラザロを解き放った出来事が、イエス様による奇跡と言えます。死んだ者が生き返るとは、実際に生命の鼓動が止
まった死者が命を取り戻して生き返るということよりも、錯覚や偏見、固定観念や絶望、あきらめや不信によって生きて
いく力を失わされていた人が、それらから解放されて、再び生きる力を取り戻した出来事を指しているのだと思います。
逆に言えば、自らが自身に抱く、あるいは他者へと抱く錯覚や偏見、固定観念や絶望、あきらめや不信が、自分を、ま
た相手を死へと至らしめる、すなわち生きていく力や元気や気力を失わせ、苦しみや辛さを生むということを示している
のだと思います。イエス様の言葉を信じるとは、つまり神様を信じるとは、まさにこのような錯覚や偏見、固定観念や絶
望、あきらめや不信など、人や自らを縛るものから解放されることを言うのだと思います。あるいは、神様を信じること
により、このような姿勢から解放されることができるのだと思います。
ラザロの復活の出来事がユダヤの最高法院で議論され、その日から指導者たちの間でイエス様を殺そうという計画
が練られ始めました。彼らがそのような態度に走るようになった最終的な要因は、ラザロを復活させたイエス様の業を
受け入れることができなかったことにありました。すなわち、ラザロの復活を神様の業と信じることができなかったこと
が、イエス様を亡きものにしようと決断するに至りました。そのように至った彼らの姿勢には、救い主に対して抱いてい
た錯覚や偏見や固定観念から解き放たれることができなかったことがあります。彼らは自らが忠実に守り続けてきた
経験や積み重ねてきた知識を越えた出来事や教えがあるということを受け入れることができませんでした。ゆえに、今
目の前に生きて働いている神様の存在を認めることができませんでした。彼らが培ってきた心の中の石が、熱く、重く、
強固であっただけに、そこから自由になることが難しく、また他を受け入れることが難しく、当然排除へと向かうことにな
りました。
神様のみを絶対者として信じ、受け入れるところから、それ以外のすべてのものが相対化されます。それが、錯覚や
偏見、固定観念や絶望、あきらめや不信という、命の世界と死の世界とを隔てる石を取り除ける方法なのだと思いま
す。
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