パトリックニュース最新号299(Patrick News)

聖パトリック教会1957年伝道開始
2018年2月18日発行 第301号

受け入れあう存在
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

離縁についてのファリサイ派との議論の中で、イエス様は創世記の言葉を引用しながら続けます。引用は、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創1:27)、または「男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた」(創5:2)からでしょう。イエス様は、それらから「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった」(10:6 )と語ります。


イエス様のこの文言は、新共同訳では少し意訳されています。「人を」という部分は、原語では「彼らを」という人称代名詞です。また「男と女とに」と訳されていますが、ギリシア語原典でも、引用元となるヘブライ語聖書でも、そのギリシア語翻訳の七〇人訳でも「雄」「雌」という言葉が用いられています。「男と女」と訳してもかまわないのですが、ほとんどの英語の聖書では、「雄」(male)「雌」(female)と訳されています。新共同訳でもノアの箱舟の物語では、同じ言葉が「また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない」(6:19)と訳しています。


これらのことから、この個所を直訳しますと、「しかし、創造の初めから、神は、彼らを雄と雌とに造った」なります。しかしこれでは、教会の聖書としては違和感があります。直訳を基本としている岩波訳の聖書でも、この箇所は「しかし、創造の初めから、神は彼らを男と女に造られた」となっています。ただし、原語は、「雄と雌」という意味の言葉であるという前提で読むとき、イエス様の主張がより明らかになるのです。


イエス様が主張したいことは、天地創造の初めから、すべての被造物は、雄(男)と雌(女)に作られたが、それを人間の事柄として特化して考えるとどうなるかということです。人間の場合は、「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」(10:7-8)と語っているのです。ここにある「」という言葉は、「人間」も意味する言葉です。そして「妻」という言葉は、直接的には「女」ですが、「妻、娘」などをも意味します。
人間の場合は、ほかの動物とは異なり、神の前で結婚という聖なる儀式を通して結びついたのである。だから、ほかの被造物とは異なり、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(10:9)と教えているのです。


これらのイエス様の言葉は、イエス様が結婚について教えている唯一の箇所です。そしてここから結婚に関する教会の倫理の基礎が作られます。同時に、そうであるがゆえに、これらの言葉は、今日その倫理を、LGBTに関する事柄を含めて考える上で、再考察すべき対象にもなっています。


創世記は、人の創造の後、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(創1:28)と続けています。そこから考えますと、創世記の「男(雄)と女(雌)」に作られたという意味は、夫婦という社会の最小単位を通して、社会の基礎が作られ、そこから子どもの誕生を通して、社会が発展・増大することが前提となっているといえます。律法全体も同じです。


それでは、イエス様は、その創世記の原点に立ち返れという意味でこの個所を引用したのでしょうか。確かに結婚に関する律法も、ほかの律法と同様に、神様がよしとされる形で守られてはいませんでした。だからこそ、イエス様は原点回帰を主張し、後に教会の結婚の倫理を作り出す基となったと考えるのは、筋が通っているといえます。しかし、イエス様のご生涯の働き、そして十字架の受難の出来事に至る働きを見ると、単に律法の初心に帰れという事柄を伝えるためにだけに、そうなさったとは思えないのです。


イエス様は、十字架の姿・出来事を通して示そうとした事柄は、律法という文言の表層を守るための回帰すべき原点ではなく、律法という文言の深層にある神様の意志であったと思います。この結婚に関する倫理も、そこから考えなければならないと思います。


十字架の姿とは何か、それは他者を他者として受け入れることの大切さでした。それを欠いてしまっては、律法が実践されても、神様の前によしとされません。なぜならば、すべてよしとされた世界では、神様がすべてを異なる他者として、作られたからです。神様が造られたすべての他者が受け入れあい、一体となるとき、そこに平和が訪れるのです。イエス様は離縁の話の際も、そのように教えているのだと思います。イエス様が示したのは、男女の結婚の、立ち返るべき原点ではなく、すべての被造物が歩み始めるべき出発点なのです。そして、そこからすべての倫理を問いなうことが求められるのです。イエス様は、律法学者に対して、そして今日の教会に対しても、同じように教え続けているのです。