Patrick_News20160515

聖パトリック教会1957年伝道開始
2016年 5月15日発行 第282号


命を救う

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と教えられたイエス様は、そのことを「命」と結びつけます。それは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(8:35)という教えです。


 ここで用いられている「命」を意味する言葉は、「魂」や「息」などをも意味する言葉です。生物的、肉体的な意味での「命」です。いわゆる普通の意味での「命」といってもいいかもしれません。「思う」という部分は、直訳すれば、「欲する」です。「救いたい」は、「救う」という動詞ですが、「今救うこと」というニュアンスがあります。「失う」という言葉は、「滅ぼす」という意味の動詞で、未来形で書かれていますので、確実にそうなると言うニュアンスがあります。これらから前半部分を直訳すれば、「自分の命を今救うことを望む者は、それを必ず滅ぼす」となります。これらの言葉は「十字架を背負って」と照らし合わせると少し不思議に思えます。普通に考えれば十字架を背負うことの方が、自分の肉体的な命を失うことになると思えるからです。しかし、イエス様は、自分の命を救うために十字架を背負わないと、それを滅ぼすことになると教えているのです。


 それは何故なのかを語るのが後半部分です。後半部分でも「命」「失う」は同じ言葉が用いられています。「わたし」は、この教えを語っているイエス様を意味し、「福音」は、ここではまだ総体的な意味が明らかにされていませんが、イエス様が示されたすべての事柄です。また後半部分では、「救う」という動詞が未来形で用いられていますので、後半部分は直訳すれば、「しかし、わたしまた福音のために、その命を滅ぼす者は、それを必ず救う」となります。イエス様のために、またイエス様が示そうとしたすべての事柄のために、肉体的な命を滅ぼした人は、それを必ず救うとイエス様は語っているのです。


 イエス様はここで、「魂」をも意味する「命」という一つの言葉を用いて、二つの「命」について語っています。救いたいと思うがゆえに、失ってしまう「命」と、イエス様と福音のために失っても、救う「命」です。前者を、「地上の命」、後者を「永遠の命」と考えれば分かりやすく、実際、ヨハネ福音書は、「地上の命(プシュケー)」と「永遠の命(ゾーエー)」と言葉を分けています。しかし、マルコ福音書は、そうではありません。肉体的な意味での「命」を意味する同じ言葉一つだけを用いているのです。それはマルコ福音書が、「永遠の命」を念頭に置いていないということではありません。マルコ福音書は、ヨハネ福音書ほど、地上の命から永遠の命へと一気に飛躍はしないということです。マルコ福音書のイエス様は、「復活の命」と「永遠の命」を目標としながらも、地上の生活で考えられる「命」にも、福音は関わると語っているのです。


 難しいように思えるイエス様の言葉ですが、それは「関係」という事柄を関係させると理解できます。なぜならば、「何かと何か」「誰かと誰か」の関係を断ち切るさまざまな境界線や差別を断ち切り、関係を回復させることが、イエス様の宣教だからです。「自分の命を救うことを欲する」とは、言い換えれば他者との関係をすべて断ち切ることです。そのような状態で自分の命があったとしても、何の意味があるか。よくマンガやSFの物語にあるように、世界で生きている存在が自分ひとりになったとしたら、ということと同じです。イエス様は、それと同じように壮大な表現で、「命」について語っているのです。そのように考えると、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(8:36)という言葉の意味が理解できます。「全世界」の「世界」は、「宇宙」をも意味し、天と地のすべてを意味します。すべての関係を断ち切って、全宇宙を手に入れ、たった一人「命」あるものとなったとしても、誰がその「命」の存在を確認し、意味ある者としてくれるのか、それは「命」を失ったことに他ならない。そこに何の得があるかということです。「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(8:37)は、そのような状態で、人間は、どうやって自分の「命」を、関係のある存在に戻すことができるのか。人間は、神様のように他の「命」を生み出すことはできないからです。


 イエス様が、「福音を(福音にあって)信じなさい」と宣教活動を始めて示そうとした事柄とは、分け隔てをする線引きを断ち切り、関係を回復させることでした。最初からその歩みに徹していました。弟子たちとの関係から始め、次に会堂で汚れた霊に取りつかれた人と他の人々との関係を戻しました。「命」とは、関係の中で存在する事柄なのです。しかし、人は、それを不自然な形にゆがめてしまう。その先にあるのは、「命」を滅ぼすことです。しかし、イエス様と福音を信じて歩む時、その同じ「命」が関係の中にある「命」へと回復されていくのです。それはイエス様の時代も現代も同じです。究極的に言えば、それはヨハネ福音書のように「永遠の命」を得ることを意味します。しかしマルコ福音書のイエス様は、今生きている「命」で、そのような関係を実践することを求めているのです。