Patrick_News20160717

聖パトリック教会1957年伝道開始
2016年7月17日発行 第284号


真っ白に輝く衣のイエス様

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(9:1)。イエス様が、このように述べた後、語り手は、「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(9:2)と伝えます。なぜ六日なのかはわかりせんが、「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ」の三人は、弟子たちの中でも主だった人々です。「高い山」は、明記されてはいませんが、伝統的にタボル山だと言われています。

このタボル山は、ガリラヤ湖南端の西方約20km、ナザレの町から東に約10kmの地点にある、ラーメンのどんぶりをひっくり返したような、なだらかな山です。資料には標高575mとありますので、日本の感覚では高い山とは思えません。このタボル山の山頂に、「変貌教会(Church of the Transfiguration)」があります。代祷に時折ある「変貌教会」という名称は、ここから来ています。聖地巡礼の観光地にもなっています。

最近のグーグルマップのストリートビューは、車道だけではなく、歩道も見ることができます。パソコンの画面を通してですが、この山頂を訪れることができます。イスラエルに飛び、ガリラヤ湖の西を通る六五号線を南から北に進み、ケファルタボル(Kfal Tavor)の町に入る手前から、車道を離れてイスラエルナショナルトレイルの山道を西に歩くと、ぐるっとまわってこの教会の前に着きます。聖堂の中までは入ることはできませんが、入口から礼拝堂の中を見ることができます。

さてこの場所で、起こったこととは、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(9:2-3)ということでした。イエス様の姿が変わったので、「変貌」と呼ばれるのですが、その姿は、輝く姿に変わったのです。「服は真っ白に輝き」とありますが、原文では「輝くような、非常に明るい」という形容詞が、「白い」という意味にもなるからです。ここではイエス様の服が輝いたのであって、服の色が「白」に変わったということではありませんが、多くの文化で「白」は、光や希望、純粋さ、不純さ、あるいは命を象徴する色です。ここでもそのような意味の象徴として、「真っ白な輝き」という表現が用いられていると思います。

そのイエス様の服の輝きと白さは、「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と加えて表現されています。イエス様の時代にも、布をさらして白くするという技術はありました。白い布は、白ければ白い程高価でした。今の技術なら、もっと光り輝くような白い布が可能というようにも思えますが、実際にはそうではないようです。洗剤のメーカーが毎年白さを追求した新しい商品を宣伝するように、布に限らず、様々な紙やインク、あるいは塗料を含めて、純粋な白は、いくら追及しても100%完全な白にはならないようです。そのことから考えると、イエス様の服の輝くような白は、今日でも再現不可能な姿といえると思います。

出来事は、イエス様の姿が変わるだけではありません。「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」(9:4)ということが起こるからです。エリヤは、イエス様より八〇〇年以上前、北イスラエル王国のアハブ王の時代に活躍した偉大な預言者です。その最後は、「彼ら(エリヤとエリシャ)が話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った」(列王下:11)とあり、エリヤは死を迎えていません。そこから、エリヤには、再び到来してイスラエルを救うという期待があります。モーセは、イエス様より一三〇〇年近く前、出エジプトという出来事の指導者であり、偉大な預言者です。ただし、「主はモーセに言われた。『これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。』主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。」(申命記34:4-5)とある通り、指導者でありながら、カナンの地に入れませんでした。そして一二〇歳で死を迎えます(申命記34:7)、それは人間に与えられた最大限の寿命でした(創世記6:3)

エリヤとモーセの登場は、なぜイエス様が弟子たちを連れて山に登り、突然イエス様の姿が変わったのか、そのことを過去から、未来に向けて明らかにします。このとき、関連するのは、すぐ直前のイエス様の言葉。「決して死なない者がいる」という部分です。ここは直訳すれば「死を味わわない者がいる」となります。

過去において、モーセは偉大な働きをした、しかし、カナンの地に入ることなく、神様が人間に与えた寿命を全うして死を迎えた。エリヤは、偉大な働きののち、死を迎えてはいないが、最後は不明であった。今目の前におられるイエス様は、そうではない。この世にはない輝きの衣をまとい、過去の人々とともにいる。イエス様は、「光り輝く服をまとう姿」に変わった。それは「死を味わうことはない者」、それを視覚的に表現したものではないか、そう読者に予期させます。それが明白となるのは、イエス様の十字架の死の後です。そして、弟子たちは、この出来事の目撃者ですが、彼らのイエス様に対する誤解は、これ以降本格的になっていくのです。