パトリックニュース最新号(Patrick News)

聖パトリック教会1957年伝道開始
2018年3月18日発行 第302号

模範としての十字架と復活
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 

離縁についての問答が終わると、「家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた」(10:10)と語り手は続けます。「家に戻ってから」は直訳しますと、「そして、家の中で」となります。「家」は、そのままの意味ですが、イエス様と弟子たちだけがいる空間を意味します。そこでの内容は、ほかの登場人物は知りません。しかし、読者は知っています。そこが重要です。


弟子たちがまたこのことについて尋ねた」という部分はほぼ原文の通りです。「尋ねた」と同じ言葉は、すでに何度も用いられていますが、「家で弟子たちがイエスに尋ねる」という組み合わせは、イエス様の教えを弟子たちが、充分に理解できなかった様子を示す表現です。この弟子たちの姿は、「弟子の無理解」と呼ばれ、マルコ福音書にある物語の描き方・モチーフの一つだと言われています。イエス様の活動の最初に招かれて、活動を共にしていた弟子たちが、実はイエス様のことを理解でていなかった、あるいは勘違いしていたということです。そしてそれには彼らの無理解あるいは失敗の一つひとつから、読者は正しい事柄を学ぶように促すという機能があります。


描き方・モチーフであるということは、マルコ福音書という物語自体が、そのような構造を持っていたということを意味します。それは近現代の小説にある構造のようにも思えます。本当にマルコ福音書の著者がそのような構造を想定して物語を書いたのかどうか、そのことを明確な根拠をもって確定することは出来ません。しかし、弟子たちの間違いが、読者に一つの理解を提供するように読むことは可能であると思います。
弟子たちは、イエス様の答えを理解できなかったから尋ねたのですが、それは読者にも共通している可能性があります。なぜならば、律法では許されている離縁が、なぜいけないのか、もう一度律法に当てはめて考えるとどうなるのか、単純にその答えを聞きたいと思うからです。


イエス様の答えは、「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」(10:11、12)でした。イエス様は、「離縁」と「姦通」を結びつけたのです。「姦通の罪」に対する刑罰は死刑です。しかしそれは、単純な性的不品行に対してではありません。レビ記20章10節にある通り、関係者が結婚していることが前提の人間関係にのみ成立します。その意味では、離縁している相手であるならば、律法では「姦通の罪」にはならないのです。しかし、その律法をどう考えるかが大きな問題なのです。イエス様はそこを問いかけているのです。


そもそも律法は、人と人とが受け入れあう関係を成立させるために存在します。それが律法の根底です。「姦通の罪」が死刑という事柄も、その関係の大切さをより厳密にするためにあると言えます。結婚という枠組みさえなくなれば、罪ではなくなるということではありません。言い代えれば、自分中心の人とのかかわり方に、律法という神様の名による法律を通して、合法性を持たせることが、律法の趣旨ではないのです。それゆえ、イエス様は、離縁についても姦通の罪と結びつけて述べたのです。弟子たちが学ぶべき事柄は、離縁という事例を通した、律法の根本です。もっと本質的言うならば、全ての被造物への神様の愛です。


この物語は、イエス様の答えだけで閉じられ、弟子たちがどのように理解したかは述べられていません。もし弟子たちが、イエス様は、律法の新しい解釈を教えてくださったという程度の理解にとどまったり、今までの律法を超えて、新しい律法を造られたととらえたりしたとするならば、それは大きな誤解であると思います。しかし、大切なのは、登場人物である弟子たちの理解ではなく、その弟子たちの姿に触れた、読者の理解です。


このイエス様の言葉が基となって、キリスト教の結婚に関する秩序が形成されました。しかし、それも、ただただ守るべき法律となってしまっては、間違った律法のとらえ方と同じになってしまいます。そしてイエス様の教えの趣旨とは異なってしまうと思います。
合法だから、あるいは法に規定がないから罪にはならないと行動すること、あるいは自分の欲望のために法律の解釈を曲げること、一般的な法律ではそのような事例が発生してしまうかもしれません。しかし、神様と人・人と人との本当の関係の構築を目指す律法では、そのようなことは起きてはならないのです。神様が造られたすべての他者なる被造物が受け入れあい、一体となるとき、そこに平和が訪れる、そのためにあゆむ、そのための導き手となるのが律法であるからです。
しかし、その実践には、神様へのきわめて誠実な熱心さと、高い理性が必要です。すべての人がいつもそれを備えているわけではありません。だからこそ、イエス様は、そのご生涯、特に十字架と復活のお姿を通して、模範として私たちを導いてくださっているのです。