Patrick_News20160221

聖パトリック教会1957年伝道開始
2016年2月21日発行 第279号


人の子の苦しみ

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 教会歴は、大斎節に入りました。大斎節は、イエス様の受難について学ぶ期間ですが、今回取り扱うマルコ福音書の物語は、その受難についてイエス様が予告された個所です。それは「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(8:31)という表現で始まります。「教え始められた」とある通り、ここが物語の中で、受難についてイエス様が最初に予告した個所です。また、「教える」という言葉が使われていることからわかる通り、受難は、イエス様の大切な教えなのです。
ここでイエス様は、「人の子」という表現を用いています。この表現は、文字通りには「人間の子ども」あるいは「人間」という意味ですが、福音書では、イエス様が「わたし」という表現に代えて用いている、称号ともとれる不思議な表現として用いられます。すでに「地上で罪を赦す権威を持つ人の子」(2:10)、「安息日の主でもある人の子」(2:28)と「地上で活動する「人の子」が語られていました。福音書の終りの方には、終末時に到来する「人の子」についても語られています。ここでは、その「人の子」を用いて受難について語っています。

私たちにとってイエス様の受難は、周知の出来事です。また十字架と復活に至るまでの必然的な出来事でもあります。ここでも「三日の後に復活することになっている」と受難の死と復活は結び付けて語られています。しかし、マルコ福音書の物語は、その受難が語られたのは、物語の真ん中ぐらいにあたるこの個所が初めてであって、最初から明示されていたわけではありません。特に読者に対しては、受難と復活との関係は少しずつ明らかになるように書かれています。最初に3章6節にはガリラヤの会堂で、イエス様が手の萎えた人を癒された時、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とありました。イエス様が活動を続ける先には、死がある可能性が、読者に対してあいまいに予告されていました。また6章には、イエス様は誰かという噂の話題の後に、洗礼者ヨハネの最後についての回想がありました。その回想は、イエス様も、洗礼者ヨハネと同じような最後を遂げる可能性があることを示唆しているといえます。


それでは、登場人物たちにとって、イエス様の受難はどうかであったかについて考えてみますと、読者よりもはるかに情報は少ないのです。特に弟子たちの場合は、イエス様に直接呼びかけられて、彼に従い、使徒として任命され、奇跡や食事などを共にしながら歩んできたがゆえに、その師であるイエス様が受難するなど、思いもよらない事柄であったと思います。「長老、祭司長、律法学者たち」という人々の肩書は、その弟子たちの理解を助けます。彼らは、物語世界の常識では、神様の側で働く宗教的・社会的権威者たちです。洗礼者ヨハネを殺した世俗的なヘロデとは異なります。弟子たちにとっては、自分たちの師であり、神様の側に立っているイエス様と、時の宗教的権威者との間に、多少の行き違いがあったとしても、イエス様が彼らに殺されるとは、思いもしないと思います。この最初の受難予告を受ける際の条件は、読者、登場人物、それぞれ異なるのですが、ここでは、その違いを超えて明確に告げているのです。だからこそ、「しかも、そのことをはっきりとお話しになった」という言葉が響くのです。「そのこと」という表現には、「ロゴス」という言葉が単数で用いられています。この言葉には、言葉という意味以上に、「概念、意味、論理、理由、思想。真理」などたくさんの意味があります。「はっきりと」と訳されている部分は、「大胆に、明白に」などとも訳すことができます。イエス様は、ここでご自分の受難の概念、意味、真理などの一切を、包み隠さずすべて教えられたのです。それは、これ以後、登場人物も、読者も、その受難をどう受け止めるかが課題となることを意味します。それまでの物語では、イエス様の受難は、意識する必要はありませんでした。しかし、ここからは異なるのです。イエス様の教えも奇跡も、受難という未来に向けて進んでいくからです。


登場人物の中でイエスに従った人々である弟子たち、その代表「ペトロ」の反応は明白なものでした。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」のです。「いさめる」は、「叱る」とも訳される言葉です。ペトロは、みんなの前ではなく、個人的に一対一でイエスを叱るのです。この一行には様々な事柄が秘められていると思います。これまで師として従ってきたイエス様への思い、従った自分自身への思い、ペトロのそれらの思いはさまざまに推測することができます。しかしそれらがどのようにであっても、イエス様の受難予告に対するペトロの反応は、否定でした。ペテロの反応は間違いですが、実は正しくもあります。イエス様の受難、あるいは人の子の受難、つまりどのような人間であっても、苦しめられ殺されることなど、正当化されないからです。人を救ってきた人ならなおさらである。そう思うのは当然であるからです。しかし、その正しい判断に最大の間違いが秘められている。イエス様の受難予告はまずそのことを指摘しているのです。