Patrick_News20151220

聖パトリック教会1957年伝道開始
2015年12月20日発行 第277号
回復へと導く主

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

イエス様が、ファリサイ派とヘロデのパン種について注意された後、物語は、ベトサイダでの盲人の癒しの物語へと続きます。「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った」と始まる物語は、短いのですが典型的なイエス様の奇跡物語の形を取っています。人々が困っている人を連れて来て、イエス様がその人を連れ出し奇跡を起こし、奇跡が確認され、癒された人が帰還します。最後の帰還の部分は、イエス様が癒された人に「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された」とあり、ベトサイダに戻るのではなく、その人の家に戻って行きます。この部分は、この物語の特徴と言えます。

ベトサイダは、ガリラヤ湖北部にある湖畔の町です。ヨハネ福音書によれば、アンデレとペトロ、そしてフィリポは、この町の出身です(1:44)。そのような町ですが、イエス様は、癒された人に、村にではなく、自分の家に戻るように指示されました。この物語の特徴と言える、このイエス様の指示ですが、なぜそのような指示をしたのか、物語自体には、理由が書いてありません。それ故、それまでの物語から解釈に結びつく個所を想起する必要があります。

5章のゲラサ人の癒しの物語でイエス様は、レギオンを追放してもらった人に、自分の家に帰るように命令しています。ただし、その物語では、ゲラサ人は、イエス様の指示に従わず、「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた」(5:20)と報告されています。また奇跡の後のイエス様の指示にしたがなかった結末という意味では、家への帰還の指示ではなく、祭司のもとへと行きなさいと言う指示ですが、1章の重い皮膚病を清められた人も、イエス様の指示には従わず「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」(1:45)とあります。この短いベトサイダでの盲人の奇跡物語には、結末は書いてありませんが、もし上で見たようなすでに物語を思い起こすならば、同様のことが、この人にも起こったのかもしれない。そのような想像へと読者は導かれると思います。そしてそのことは、物語全体と呼応しています。

この物語の後、次に来るのはイエス様の第一回受難予告です。そこでは、弟子の代表ペトロが、受難を理解できずにイエス様から厳しく批判されるのですが、それは、弟子たちが、物語の流れに沿って形は従っていくが、信仰的にはイエス様から離れて行っていることを、明確に示しています。しかし、そのような弟子たちとは異なり、イエス様に従った人々はいる。物語は繰り返しそう示唆しているように思えます。

この物語でイエス様が指示した内容は、その人の家への帰還でした。思い皮膚病の人に対しても、ゲラサ人に対しても、イエス様が出した指示とは、その人にとって、もっとも大切なこと、もっとも基本的な状態に戻るということへの指示でした。その意味では、目を癒された人にとって、ベトサイダにいることは決してよいことではない、本来の姿ではない、イエス様はそう考えたのかもしれません。細かい事情について、マルコ福音書は何も記していませんが、ヨハネ福音書9章には、目を癒されたがゆえに、村にいられなくなった人の物語があります。同様のことが予想されたのかもしれません。

イエス様にとって、自分が奇跡を起こした人が、自分のことを宣教するのは、喜ばしいことであるのは確かだと思います。しかし、イエス様はそのことを自分から求めてはいません。イエス様が奇跡を起こされたのは、奇跡が起きることによって、その場にいる人が、その人本来の状態に戻ることです。自分を取り戻し、また自分らしく生きられる状態に戻ることです。それが、イエス様の宣教なのです。イエス様の宣教の業に加わるかどうかを選ぶのは、その人の自由なのです。

クリスマスは、家族で過ごすことが大切である。そう言われることがあります。キリスト教文化圏では、どんなに忙しくても、クリスマスまでに仕事を終えて、クリスマスを家族とともに過ごし、その後は、新年を迎えて新しい仕事が始まるまで、クリスマス休暇となることが理想とされます。現在は、休暇という意味だけが強く残っているかもしれませんが、その根本にあるのは、イエス様がどのような宣教をなさったかが関わっています。それは、この短い物語にも現れているように、イエス様の活動すべてで見られる事柄です。

クリスマスは、イエス様の誕生を祝う時です。イエス様が救い主としてこの世界に来られたことの意味について、たくさんのことが考えられます。その意味をこの物語と結びつけるならば、イエス様と出会う人が本来の姿へ回復されることに他なりません。そして、その根底にあるのは、永遠に変わることない神様の意志・愛です。人間にとってその愛を感じることが本当の喜びなのです。日常の世界には、自分本来の姿とは程遠い生活があります。しかし、クリスマスは、イエス様の誕生を祝いながら、わたしたち一人ひとりが神様の愛に包まれるひと時です。その喜びをできる限り多くの人と共に味わいと思います。