Patrick_News20160117

聖パトリック教会1957年伝道開始
2016年1月17日発行 第278号


イエス様とは誰か

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

イエス様は、ベトサイダで目が不自由な人を癒しされた後、「弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われ」ました(8:27)。それに対して弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と答えました(8:28)。この問いと答えに近いやり取りが、すでに6章でありました。


それは、洗礼者ヨハネの最後について回想する物語の導入部分でした。そこでは、「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた」(6:14-15)という個所です。そこでのイエス様についての噂は、「洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者」の三つでしたが、今回も同じでした。


前回の物語は、「パトリックニュース」の2014年9月第263号でも取り上げました。この個所は、物語の流れとしては、イエス様がナザレに戻り、そこではあまり受け入れられず、その後一二人を呼び寄せて派遣した後の部分であり、ナザレ近辺での出来事になります。その時から、今回の出来事まで、物語の流れの中でどれぐらいの時間が経過したか正確には分かりません。しかし、移動した場所をあげますと、ナザレ~ガリラヤ湖~ベトサイダ~ゲネサレト~ティルス~ダルマヌタ~ベトサイダ~フィリポ・カイサリアとなります。それらの距離を直線距離だけで総計しますと、あくまで概算ですが、約330キロとなります。マルコ福音書の著者が、パレスチナの地理を深く理解して書いているかは不明ですが、かなりの距離です。当時の成人男性の一日の移動距離は30キロと言われますので、移動するだけで11日かかります。その間に、船を用いたり、食事をしたり、宿泊したり、ゆっくり教えたりなどとありますから、数週間は経過していると思います。


なぜ、そのような時間経過が必要かと申しますと、それだけの時間が経過し、またイエス様の活動が積み重ねられたにもかかわらず、人々のイエス様に対する噂は大きく変化していないと物語は語っているということです。マルコ福音書は、弟子たちがイエス様を誤解する物語であると言えますが、人々の誤解もかなり根強いのです。


さて、そのような中で、イエス様は、弟子たちに尋ねました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。そしてペトロが答えます。「あなたは、メシアです」(8:28)。メシアと訳されていますが、ギリシア語は、クリストスつまりキリストで、イエス・キリストのキリストと同じです。ややこしいのですが、クリストスは、ヘブライ語のメシアの訳語ですから、ここではイエス・キリストという意味のキリストではなく、メシアとい意味で答えているので、そのように訳されています。


ペトロの答えは、正しくもあり、しかし間違いでもありました。ここがイエス様について、三つの噂を立てていた、人々の誤解と質の異なる誤解があります。弟子たちの誤解は、正解でもあるがゆえに、余計に複雑であり、また自分では取り除けないのです。


イエス様は、ここでは強く否定もまた修正もしませんでした。強い口調でペトロを批判するのはこの後です。ここでは、「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」(8:30)という程度で終わっています。


今年も1月1日に、「イエス命名日」の礼拝を行いました。元旦礼拝とも称されますが、その日は、「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた」という、ルカ福音書の記述の通りに、わたしたちのメシアは、「イエス」と名付けられた方であることを改めて確認する日でした。「イエス」という名前は、ヨシュア記のヨシュアです。このヨシュア、イエスという名前は、名前として一般的と言えますが、言葉としては、「主は救い」という意味があります。ヨシュア、すなわちイエスは、「主なる神が救いである」という非常に基本的な意味を持つ名前なのです。このことから考えますと、イエス様がイエスと名付けられたことの背景にあるのは、「主が救いである」こと、そのことを改めて確認するために他なりません。「主が救いである」、それは少なくともユダヤ人にとっては当たり前といえますが、なぜあえて新しい救い主に、そのような名前がつけられたのかというと、人間は、その当たり前のことを忘れて、主なる神から離れて、他の存在により頼んでしまうからです。


 イエス様とは誰か、その問いに対する答えは、人間の思いや願いからは出せないのです。人間がどのように真摯に、あるいは知恵を絞って、または正義感を持って答えを出したとしても、正しいと同時に間違ってしまうからです。しかし、その名前にある「主なる神様が救いであること」、そのことを信じるならば、イエス様が、人間の思いを超えた救い主であるという答えが明確になります。今年がその答えが少しでも具体化されるような一年であればと思います。