Patrick_News20160320

聖パトリック教会1957年伝道開始
2016年 3月20日発行 第280号


神のことを思う

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

 「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた」。ペトロは、受難予告をしたイエス様をいさめました。しかし、今度は、イエス様がそのペテロを叱ります。新共同訳では、「いさめる」「叱る」と言葉が異なっていますが、原文では「評価する、批判する、叱る」を意味する同じ動詞が使われています。しかし、イエス様とペトロとの発言の在り方は明確に異なっています。


 ペトロは、イエス様をわきへお連れして、一対一で語りかけました。しかし、イエス様は、振り返り弟子たちを見ながらペトロに語りかけたのです。ペトロは、先生であるイエス様の立場を配慮して、発言したように思えますが、イエス様は、ペトロの立場などは一切配慮せず、むしろ配慮してはならないほど、ペテロは大きな間違いをしていると言わんばかりに、弟子たち全体に語りながら、ペトロを厳しく叱るのでした。その厳しさは、言葉の内容にも現れています。

 イエス様は、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と語り、ペトロを叱ります。弟子の代表であるペトロは、その先生であるイエス様からサタン呼ばわりされてしまったのです。サタンは、悪霊や汚れた霊と同じような存在です。弟子たち(使徒たち)は、汚れた霊に対する権能を授けられていますから(6:7)、追い出していた側が、追い出される側にされたというほどの批判です。また「引き下がれ」は、直訳では「わたしの後から去れ」となり、イエス様が最初にペトロを弟子として招いた時の言葉、「わたしについて来なさい(わたしの後から来なさい)」と同じ構造です。動詞だけを正反対の意味に変えています。イエス様のペトロに対する言葉は、弟子の召命も、使徒としての任命も打ち消すほどの厳しい批判の言葉なのです。


 次に、その理由が続いています。日本語聖書では、すぐ言葉が続いていますが、原文では、「なぜなら」という言葉があります。なぜ、ペトロはそんなに厳しく批判されるのか。それは、人間のことを思って、神様のことを思わなかったからでした。「思う」という動詞は、特別な動詞ではなく、日本語の「思う、考える」と同じ意味です。マルコ福音書での用例はここのみですが、パウロ書簡ではよく用いられています(「幼子のように思い、幼子のように考えていた」1コリ13:11、「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え」ローマ8:6など)。人間が普通に何かを考えたり、何かを思ったりすることを意味しています。


 ペトロは、前回触れた通りに、先生であるイエス様から、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」という言葉を聞いて、イエス様をいさめたのでした。そこにはいろいろな思い、考えがあったと思います。先生であるイエス様の身の安全を心配する気持ち、自分が関わっている活動への熱意、神から遣わされて人を救う存在であるメシアが受難するはずないという常識的な判断などです。しかし、イエス様は、もしペトロの発言が、たとえイエス様のことを心から大事に思い、大切に思ったが故の発言だったとしても、十字架への道を否定することは、根本的にイエス様の活動を理解していない、すべての台無しにしてしまう、それだけではなく、サタンが働く余地を生んでしまう、そのように批判したのでした。


 なぜそうなるのか、人間は、愛する対象、大事な対象のために間違いを犯してしまうことがあるからです。愛するもの、大事なもの、それが人であれ、祖国であれ、理念であれ、思想であれ、財産であれ、崇高なものであれ、人間は、自分が愛するものに害を及ぼす対象に対しては、それを守るために攻撃的になってしまう場合があるのです。戦うことを心から嫌う人であっても、愛する人のために戦いを選んでしまうことがありうるのです。


イエス様の厳しい言葉は、そのような過ちを防ぐ言葉に他ならなりません。どうしたら、そのような人間の思いを超えることができるか、それは神様のことを思うことのほかにないのです。人間は自らの力では、その思いの範囲を超えることも、間違った方向に進んでいることに気づくこともできないからです。ここでは直接語られていませんが、逆に神様のことだけを思っていてもだめなのです。それはイエス様の敵対者たちの姿です。人のことも思わなければなりません。ここでのイエス様とペトロとのやりとりは、後に愛すること題材とした、「最も大切な教え」についての物語に共通しています。


復活は、単に不死の体を得るだけではありません。また人間の思いで何かを精一杯実行し、報酬として得られるものでありません。まさに、神様の愛の具体的な表れとして、神様のことを思い、そして同時に人のことも思った時に、恵みとして与えられる命です。その復活の命は、イエス様を通して後の世に与えられる命であると同時に、本来ならば、この世界において、本当の平和の中で、実現すべき命の他ならないのです。だからこそ、わたしたちのその命を、イエス様を通して、求めなければならないのです。