Patrick_News20160417

聖パトリック教会1957年伝道開始
2016年4月17日発行 第281号


十字架を通した神様の愛

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

イエス様は、人のことを思い、神様のことを思わなかったペトロをいさめ、ご自分の受難と復活について述べます。その様子は「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」(8:34)と記されています。この短い一節は、イエス様を信じること、そしてイエス様に従うことについて、大切な事柄を述べています。


第一は、イエス様がもはやペトロや弟子たちだけではなく、群衆をも呼び寄せて語りかけていることです。そもそも、ここでのお話の始まりは、イエス様が誰であるかについて様々なうわさが流れ、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とイエス様が弟子たちに尋ねたことでした。しかし、最終的にイエス様は、もはや教えの対象を弟子たちだけにとどめず、群衆も集めているのです。これは、明らかに弟子や群衆という登場人物を超えて、その教えを読者にも語りかけていると言えます。つまり、ここにある教えは、過去の弟子たち、群衆たちを超えて、今、福音書を読んでいるわたしたちにとっても大切な事柄だということです。


次はその内容です。その中で最初に、イエス様は、「自分を捨て」と語ります。「捨てる」という言葉は、「否定する、拒否する」という意味の言葉です。ペトロがイエス様に、「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろ」(14:30)と告げられ、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(14:31)と宣言する部分にも用いられています。「自分を捨てる」という表現は、分かりやすいようで難しい表現です。反対から考えた方が、分かりやすいかもしれません。すなわち「自分を肯定する」ということの反対だということです。もちろん、「自分を肯定する」という表現の意味も難しいのですが、少なくともそれは、知的な意味であっても、感情的な意味であっても、自分にとって、喜ばしいこと、うれしいこと、あるいは何か満たされると感じること、それを求めることに他ならないと思います。そしてそのような思いは、誰でも何らかの形で持っていると言えます。逆説的に言えば「自分を捨てる、自分を否定する」という教えも、単なる達成目標になってしまうと、自分は誰よりも一番自分を捨てていると誇らしげに思うようになり、自分を肯定することになってしまうかもしれません。
イエス様は、自分を肯定したい、認めたい、あるいは誰かに肯定されたい、認められたいというような思いは、誰にでもあり、そして何か行動をするときに大切な原動力になるかもしれないが、それを超えないと、イエス様の宣教を理解できない、イエス様に従えないと教えているのです。


次に、「自分の十字架を背負って」と語ります。「自分の十字架」という部分は、直訳すると「彼の十字架」です。その「彼」とはイエス様に従う人というという意味です。いつくかの英語訳ではそのまま「his cross」と訳されていますが、日本語では、「自分の」と訳して一向にかまいません。「背負う」は「運ぶ」という言葉です。もちろん、十字架を運ぶとは、単にその労働をするという意味ではなく、自分の死刑に結びつく作業の一端を自分が担うということです。


ここで気を付けなければならないのは、イエス様は、従う人は、その人自身の十字架を背負いなさいと語っているという点です。その人に外的にかかわる属性的な十字架、あるいはある集団の一員としてその集団の十字架の一端を背負えとは語っていないのです。つまり、民族的、職業的、性別的、人間関係的な十字架ではない、「~だから、あなたの十字架はこれだ」と背負わされるものではないということです。「十字架を背負う」という表現は、現代日本ではある程度一般化されており、何らかの責任を背負う、宿命を背負う、歴史的な過去を背負うというように用いられる場合もありますが、すくなくともそれはイエス様の教えとは異なる用い方です。


これらのことを踏まえて、イエス様は、「わたしに従いなさい」と語ります。ここで一つの事柄が明らかになります。それはすでにマルコ福音書という物語の最初からペテロやアンデレたちはイエス様に従っていました。イエス様の活動の最初から共にいたのです。ここで改めて従いなさいと命じられると言うことは、単に皮肉ではなく、一緒にいたとしても、本当に従ってことにはなっていないということを意味しているのです。それは未来の弟子たちの失敗を予期しているとも言えます。事実、ペトロは、自分ではなく、イエス様を「知らない」と否定してしまいました。自分を守るため、自分を肯定するためでした。


イエス様は、自分の十字架を背負いなさいと命じましたが、人間は、自分の十字架を背負えないのです。しかし、だからこそ、イエス様が担って下さったのです。自分が背負えなかった十字架を、イエス様が背負って下さったのです。そこに神様が私たち一人ひとりを愛して下さっているという事実があります。その事実から、一人ひとり歩むべき道が示されると思います。