2001年 <今月の一言 -今月の祈り->
12月
「よろずの人の 君にいませど
馬屋のうちに 生まれたまいて
いやしきものの うちにいたもう」(『古今聖歌集』第26番 2節)
「ダビデの村の」という聖歌の第2節を今月の一言としてみました。
かつて聖職志願を考え、また悩んでいた頃、ローマカトリックの福岡の神学校が出版した『司祭』という本を読んだ事があります。その内容の記憶はもう曖昧なのですが、表紙の絵は大変印象的で、今でも覚えています。赤く焼けただれた世界。核戦争をしている地上に主イエスが、ご自分も赤く腫れ上がったケロイドを負いながら、しかしまっすぐに地上を見つめ、手をグッと伸ばして、天から降って来られる絵だったのです。この世界の現実の中に、その痛みと悲惨の中に降られる、いや突入して来られる神。そのようなことを思いました。
「受肉」(インカネーション)は特に聖公会にとって、最も重要と言っていい信仰の要です。「神が肉体をとられた」、すなわちわたしたちの弱さと不完全さを、御自分のうちに引き受けられる神。2000年前と同じように今も。信じられないような主張をキリスト教はしています。
クリスマスの主題は「ハッピー・バースディ」ではなく、まさに「受肉」の神秘なのです。
11月
「主は聖徒によって清い生涯の模範を示し、私達が召されて保つ望みを堅くされました。これはわたしたちも多くの証人に雲のように囲まれ、信仰の競争を忍耐をもって走り抜き、ともに朽ちない栄光の冠を得る為です。( ゆえにわたしたちは、み使いとみ使いの頭及び天の全会衆とともに.....、聖なるかな、聖なるかな)
11月の諸聖徒日(1日)、諸魂日(2日)はわたしたちの信仰生活の中でも、もっと重んじられても良いのでは無いかと最近感じています。「先祖供養」がキリスト教的であるかどうかというよりも、教会の信仰における「聖徒の交わり」は天上と地上を含んでいる、また過去と現在とを含んでいると、はっきり言うことが出来るからです。また諸聖徒日は降臨節に向けての出発であるとも言われます。再び来たりたもう主を待ち望む季節が始まろうとしているのです。私達も「自分に定められている競争を、忍耐強く走り抜こうではありませんか」
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