2002年 <今月の一言 -今月の祈り->

牧師 司祭 加藤 博道

 12月 

   クリスマスに向かって−闇の中の光−
  「全能の神よ、み子の訪れによってわたしたちを清め、心の闇を照らしてください。
  主が来られるとき、主にふさわしいみ住まいを、常にわたしたちのうちに備えること
  ができますように」  (降臨節第4主日・特祷より)

この降臨節を迎える前夕、聖パウロ教会では黙想の一時を持ち、植松 功氏を黙想の導き手としてお迎えしました。フランスのテゼ共同体や、さらにバングラディシュの同共同体で生活した豊かな経験を持ち、今日多くの教会や修道会等の霊的指導をされています。この黙想会にあたって、ルカ福音書の「ザアカイ」の物語(19章)が一つのテキストに選ばれました。どういう黙想を指導されるかは分かりませんが(この原稿はその前に書いていますので)、いろいろな思いがすでに浮かんできます。
 背の低い取税人の頭ザアカイは、木に登ってイエスを一目見ようとします。そのザアカイにイエスは「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」(新共同訳)と言われるのです。「ぜひ・泊まりたい」も確かに強い言葉ですが、原語のギリシャ語では dei(英語のmustに相当) という言葉が使われており、「わたしは泊まらねばならない」という響きがあります。「わたしはあなたの家に泊まらねばならない!」。

なぜなのでしょう。イエスは罪びとであるわたしたちのもとに来られなければならない、と。そしてわたしたちのもとに宿らなければならないと言われるのです。
 もし人にそう言われたら、わたしたちはどうするでしょう。「いえ、ちょっと今は散らかっていますから」、「お泊めするような家ではありませんから」。それとももっとはっきり「わたしはあなたに来て欲しくありません」というでしょうか。口では嬉しいようなことを言いながら、なんとか他へ行ってもらおうとするかも知れません。そうです、わたしたちはいつも「散らかっている」し「整っていない」のです。しかしそのわたしたちのもとへ主は「泊まらねばならない」とおっしゃいます。困ったことです。しかし、ザアカイのように木から喜んで降りて、主イエスを迎えようではありませんか。「どうぞおいでください、そしてわたしたちの(心と世界の)闇を照らしてください」と。


11月

―記念の月―
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようなおびただしい証人の群れに囲まれて
いる以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を
忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスをみつめ
ながら。このイエスは、ご自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死
を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(『ヘブライ人への手紙』第12章)

2年ほど前に、それ以前1年間の留学生活の報告のような形で、『礼拝学日記―バーク
レイより―』という小さな本を出しました。本当の日記というのではなく、むしろ月別に
礼拝に関する事柄をまとめたものでしたが、何人かの方から「11月の箇所が一番印象的
だった」と言われたことを覚えています。11月の記事とは、その年の諸聖徒日と諸魂日
のことを中心に「教会暦の中で、11月全体が記念の月、死者の記念の月」であるという

一つの伝統を思い巡らしたものでした。留学地でのチャペルは、諸聖徒日・諸魂日を迎える以前から、それぞれが心にとめる逝去者の写真や花が飾られ、記念簿に名前が記され、香の香りが満ちて、ろうそくが灯されていました。「抹香臭い」というならば、まことに抹香臭かったのです。しかしそこには哀悼の念と共に、静かな安らぎがありました。わたし自身にとっても、それは両親を送った年であったので、個人的な感情もあったのでしょう。そして日本の我々の方がこの11月、よほど多種の行事に追われながら、慌しく過ごしていると感じたのです。11月全体が死者の記念の月である。そうだからこそ11月の最後にあたる降臨節前主日は「王なるキリストの主日」(Christ the king)と呼ばれ、歴史の最後にすべてのものがキリストのうちに収斂されることを覚え、そして「主が再び来られる」ことを待ち望む降臨節へと続くのだと、私自身再認識させられたのです。

 日本聖公会の教会暦、とくにこの11月についての理解を、改めて考える必要があると
真剣に考えています。わたしたちは「多くの証人たちに囲まれながら生きている」、この
信仰的な実感を、この11月、とくに思い巡していたいと思います。


10月

  「(ダニエルは)家に帰るといつもの通り二階の部屋に上がり、
エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、
日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」(ダニエル書6:11)

  「わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。
夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。
神は私の声を聞いて下さる」(詩編55:17、18)

これらの聖書の言葉は、キリスト教以前からのイスラエルの宗教における祈りの伝統を指し示しています。そしてこれらはかなり自然な、さまざまな民族、宗教に共通する祈りの習慣でもあったでしょう。アフガニスタンでのイスラム教の様子がテレビなどで映される時、こうした定時の祈りが強く義務づけられていることを知ることが出来ます。

 朝目覚めた時、夜眠りにつく前、そしてその間です。さらには夜中起きて祈ったり、「日に7度」祈ったり(詩編119:164)、ついには「絶えず祈れ(テロサニケ氈@5:17)」と聖書は命じています。1世紀末と言われる教会の古文書『ディタゲー』は日に3度「主の祈り」を唱えるよう命じています。「絶えず祈る」ということは形式以上のことですが、それにしても修道院の戒律から日に8度の「聖務日課」(オフィス)が確立、聖公会の早晩祷の背景となっていきます。

 先日(9月22・23日)九州教区にお招き頂き、教区信徒研修会に参加してまいりましたが、開会礼拝や閉会礼拝のそれぞれの結びの部分で、信徒の方による大変適切な祈り(自由祈祷)が行われ、印象的でした。さすがCMSの伝統を引く九州教区、と感銘を受けた次第です。

 わたしたち、聖公会には祈祷書という宝があります。これは古今東西(教会)の祈りを集めているもので、私たちの祈りがあまりにも恣意的になることを防ぎ、豊かな祈りの伝統へと、私たちを導いてくれます。同時にしかし、この書は主として「共同礼拝(公祷)」の書であって、わたしたちがそれぞれの思いと言葉をもって随時祈ることを、決して禁じてはいないのです。唇に祈りを。それは時としてため息であったり、嘆きであるでしょう。しかし祈るうちに、それが感謝と賛美に変えられていくことも、信じていたいものです。


9月

     老人は旅をする      
     「神に従う人はなつめやしのように茂り
     レバノンの杉のようにそびえます。
     主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。
     白髪になってもなお実を結び
     命に溢れ、いきいきとし 述べ伝えるでしょう。
     わたしの岩と頼む主は正しい方
     御もとには不正がない、と。」(詩編第92編.13節から16節)

 今年は9月15日(日曜日・「敬老の日」)の礼拝の中で、ご高齢の方々への、またその方々を今日まで恵み支えてこられた神様への感謝をもって、祈りたいと思います。従来、聖霊降臨日に行われていた80歳以上の方への教会からの記念品贈呈等も、今年はこの日に感謝の祈りと共に、と考えています。年齢を強く意識しておられる方もおありでしょうし、年齢などは関係ない、とおっしゃる方もおありでしょう。いずれにしましても、今年はこの日をお心にお留めいただければ幸いです。

 聖書の中には、多くのかなり高齢な人々が登場しています。アブラハムは175歳、イサクは180歳、ヤコブが147歳、モーセ120歳。新約聖書でも、幼子イエスの宮詣の時に現れ、イエスの生涯を預言するシメオンなど、です。印象的なのは、これらの人々が、旅を続け、また神を求め続けている人々であるということです。「自分はもう全てわかってしまって、落ち着いてしまった」という感じではありません。彼らはなお、旅をする。時として若者の方が、短絡的な答えを出し急ごうとします。老人は待ち続けます。聖霊降臨日の旧約聖書、あるいは使徒書「使徒言行録」には「ヨエル書」が用いられています。「若者は預言をし、老人は夢を見る」と。ある老司祭は、「信仰に時間はない」と言うのが口癖でした。世間的な「敬老の日」と教会のそれとは、どう同じで、どう違うのでしょうか。「長く待ち続けている信仰者、今なお旅を続ける信仰者への尊敬と感謝」をもって、祈りたいと思います。


8月

     「主に造られたものよ、主をたたえ 世々にほめ歌え
     天よ、主をたたえ 世々にほめ歌え
     日と月よ、空の星よ、主をたたえ 世々にほめ歌え
     風よ、火と熱よ、主をたたえ 世々にほめ歌え
     夏の暑さと冬の寒さよ、主をたたえ 世々にほめ歌え」
    (「万物の歌」―アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌―より抜粋)

「教会ファミリーキャンプ」は、テントあり、ロッジあり、旅館宿泊ありと、多彩な、そして充実したプログラムを持つことができました。皆様のご協力とお祈りのおかげと感謝しています。キャンプにつきましては、別の機会に詳しいご報告をと思います。蓼科の白樺の木に囲まれた大きな自然の中で、「朝の礼拝」を捧げるとき、朝の礼拝の賛歌である「万物の歌(頌)」の言葉が身にしみます。聖書全体の中でも比較的珍しい、自然現象全体が神を賛美するというテーマです。

 「夏の暑さと冬の寒さよ、主をたたえ 世々にほめ歌え」。
まことにその通りだと思います。しかし同時に、とくにこの夏の東京の暑さを思うとき、これは本当に神様の造られた暑さなのだろうかと考えざるを得ません。蓼科でも日中はかなり高温でした。しかし「土」の上に立つとヒンヤリとしているのです。都会に土がなくなり、すべて「清潔に」舗装し、また巨大ビルの中がみんな仕事の効率を下げないよう冷房をし、車が排気ガスを吐き出しと、どうもこの暑さは人間の文明が作りだしている面も大きいようです。わたし自身もそうした技術的な文明の恩恵にあずかりながら生活しています。神様の創造の中で、その創造を破壊することなく生きる、生かされるという本当の知恵へと、わたしたちはもっともっと導かれていく必要があるようです。8月の皆様のご生活、ご健康の上に主のお守りをお祈りします。


7月

「時が来た。わたしの魂よ、すでにその時だ。
あなたは知りたいと願うだろうか。あなたの存在と目的を。
どこからあなたはやってきて、どこに憩いを見出すのが正しいのかを。
人生とは、わたしたちが生きているところのものなのか。
それとももっとましなものを、わたしたちは期待するのだろうか。
仕事にとりかかれ、わたしの魂よ。いのちを清めることが必要だ。
神と、その奥義を求めよ」(ナジアンゾスのグレゴリウス<4世紀>)

 6月にわたしたちは教会の交わりの中からお二人の方を、神様の御許にお送りいたしました。それぞれ長い病床生活をご家族が懸命に支えられ、ご家族の祈りのうちに地上の生涯から、神様の御許にある永遠のいのちへと移っていかれました。実は教会での葬儀、あるいは深い関係を持った方々の逝去は、この半年で6人となりました。「教会はいのちと死とが出会うところ」「希望と絶望が出会うところ」と言った人がいます。わたしはまた「人間の有限な現実と、神の無限の奥義が出会うところ」と申し上げたいと思います。それぞれの方の死、葬儀を通して、わたしたちは人間として悲しむと同時に、わたしたちの思いを超えた神様の「奥義」(秘義)に向き合わされていると感じます。それがどういうものですと、今簡単に言うことは出来ません。冒頭の4世紀の偉大な教父、ナジアンゾスのグレゴリウスの祈りは、そうしたわたしたちの思いを支えてくれているようです。「仕事にとりかかれ、わたしの魂よ。神と、その奥義とを求めよ」。

 お二人の魂が主の御許にあって安らかであることを信じて祈ります。
「主よ、絶えざる御光をもって、かれらの魂を照らしたまえ アーメン」


6月

「わたしたちは、また持ち寄って交わり合うすべてのことによって、
 すべての物の造り主を、その子イエス・キリストと聖霊とによって、
 ほめたたえるのである」(6月1日・殉教者ユスティノス)

 6月1日は、殉教者ローマのユスティノスの記念日となっています。日本の教会で誰でも知っている有名な人物とは言えないでしょう。日本聖公会祈祷書には「殉教者ジャスティン」として小祝日になっています。ユスティノスは2世紀の人物です。キリスト教ではない家庭・環境に育ち、哲学の学徒となっていきますが、人生の確かな意味や喜びを見出すことが出来ずに遍歴し、しかしやがて回心の体験をしてキリスト者となっていきます。 

 150年頃にローマに移り、キリスト教の哲学者となって著作を残しますが、とくに二つのキリスト教護教論を書いた中に、当時の礼拝の様子を描いてくれています。「わたしたちは太陽の日といわれる日に集まる」、「使徒の記録、預言者の書物(聖書)を読む」、「みんなで一緒に立って祈る」、「パンとぶどう酒を捧げ、司式者は祈りと感謝とを捧げ、みんなはアーメンと答える」。この文書は結果として、150年頃の、つまり初代教会の礼拝の様子を伝える貴重な資料となったのです。その中の一文が冒頭の美しい言葉です。

 167年頃、ユスティノスは6人の弟子と共に殉教しました。


5月

     「全能の神よ、わたしたちは独りのみ子イエス・キリストが
     天に昇られたことを信じます。 
     どうかわたしたちも心と思いを天に昇らせ、
     絶えず主とともにおらせてください。」(昇天日・特祷)

 「心と思いを天に昇らせる」ということは現代人のわたしたちにとって、必ずしも簡単なこ   とではないようです。いつも目の前の出来事や日常に追われ、天などを仰ぐのはよっぽど失敗   した時くらいかもしれません。「足元をしっかり見なさい」という叱り方はありますが、「しっ  かり天を見上げなさい」というのはあまり聞きません。
「心を神に」(現行祈祷書)、「なんじら心を挙げよ」(1959年−文語−祈祷書)という聖餐式の 「感謝聖別文」冒頭の司祭と会衆の応答句は本当に古い教会の祈りです。ラテン語では「スルスム ・コルダ」、ギリシャ語でも同じ内容で3世紀頃、最古の式文中にすでに見ることができます。
 「なんじら心を挙げよ」。それは地上の現実から目をそらし、いやなことには目をつぶって生きま しょう、それが宗教です、という意味ではまったくありません。しかし同時にわたしたちは、天 に心を挙げ、捧げることも忘れてはならないのです。聖餐式の中で、本当は会衆もこの祈りの時 に、司祭とともに思いきり両手と顔を天に向けて挙げてごらんになると、ずいぶん違う印象を受 けられるかも知れません。


4月

 『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心
 は燃えていたではないか』。
  主よ、あなたはエマオへの途上で、ご復活のお姿を弟子たちに現され、聖書を説き
 明かし、また食卓でパンを裂かれました。
 わたしたちの心をも燃えたたせ、あなたと共に歩む者とならせてください」
                 (『ルカ福音書』24章、エマオ途上に寄せて)


 この祈りの前半は『ルカ福音書』24章、エマオ途上における弟子たちの言葉です。
主の受難と処刑の後、失望してエルサレムからくだっていく二人の弟子たちに、いつの間にかご復活のイエスが現れ、共に歩んでいかれます。しかし二人はそれがイエスとは気がつきません。イエスは聖書全体(これはまだ新約聖書の書かれるより前のことですから、ここでいわれる聖書とは旧約聖書のこと)からご自分について説き明かされます。それでも弟子たちは気づきません。ついに日が暮れかかった時、弟子たちはその人に願って一緒に宿屋に入ります。そこでその人が祈ってパンを裂いたとき、かれらはそれがイエスであると悟るのです。しかし出来事を完全に理解する前から、彼らの心は、なぜか熱くなり、静かに燃えていた、と聖書は伝えています。
 皆様のこころは燃えていますでしょうか。信仰のゆえに、あるいは永遠を思い、神を思い、人生の喜びと苦難を思うゆえに……・。心の中にポッと熱いものが宿るとき、それは一つの復活体験なのだと、ある人が言っていました。

ヘンリ・ナウエン著の『燃える心で』(景山恭子訳.聖公会出版)という名著があります。お薦めします。


3月

 「永遠にいます全能の父よ、この尊い聖奠のうちに、み子イエス・キリストの受難
  の記念を残されたことを、感謝します。
  どうかキリストの体と血の聖なる奥義を畏れ敬い、贖いの実を自らのうちに悟り、
  生活の中に現すことができますように」
                              (聖木曜日・特祷)

 この祈りは、復活日の前、聖木曜日の祈りですが、同時に当教会でも1年間を通して、聖餐式後にベストリーで唱えている祈りです。さらにもともとは「聖餐感謝日」(コルプス・クリスティ)のためにトマス・アクィナス(13世紀)が作ったものと言われています。一方、この言葉の中の「生活の中に現す」は英国教会の祈祷書改訂によってつけ加えられました。聖餐式で受けた恵み、その贖いと罪の赦しと、そして新しい命の希望を、現実の生活の中に現すこと。礼拝と生活、とくに聖餐と生活の結びつきの大切さに心を留めたいと思います。
 今日の世界の聖公会は、復活日に至る前の1週間(聖週)、さらに直前3日間(聖なる3日間)を尊重しています。聖木曜日の夜は当教会でも「聖餐制定記念」(最後の晩餐の記念)聖餐式を行い、金曜日には東京教区の「受苦日礼拝」が、聖土曜日の夜(本来は深夜ですが、当教会では午後6時)には復活日前夕の礼拝が行われます。可能な方はご参加を、またご無理な方はお心のうちにお覚えください。
 それではイースターに、お目にかかりましょう。


2月

 「神にして 万物の主なるおん方よ、わたしたちのみじめな様にもかかわらず、
  ともにあるにふさわしき者となさしめ給え。
  わたしたちが互いにいつわりなく、平和と愛で結ばれるようあらしめたまえ。
  あなたの知恵の働きと、おん子イエス・キリストの助けにより、わたしたちの結び
  つきを強めたまえ」
                         (4世紀・シリアの典礼より)

 2月、いよいよ大斎節を迎えようとしています。「いよいよ」と言っても、まだクリスマスを祝ったばかりで、信徒総会があったり、正直に言えばまだ心の準備が出来ていない、という感があります。昨年よりイースターの日付も2週間早いです。
 中部教区主教・森紀旦師の著『主日の御言葉』の一節に、「教会暦によって私たちは、礼拝の中で特別な教理のみにとらわれず、バランスを保ってキリストにおける神の救済の秘義の諸面を記念し、祝うことが出来るのであり、それは日常生活を導くものとなるのです」という言葉がありました。確かに「感謝」は「悔い改め」を含んでいます。
「悔い改め」は「新しい希望」をさし示しています。わたしたちの信仰が、自分の気にいったある特定の信仰のテーマにだけ偏ったものとなることは、あまり望ましくないでしょう。御子の受肉・降誕、そして異邦人への顕現の祝いの季節は、その祭色(白から紫)に象徴されるように、続く受難の出来事へと、だんだんとトーン(色調)を変えていきます。
 「大斎節」は本来イースターに洗礼を受ける人々の準備の季節であり、同時に教会全体、集う一人一人が自分の信仰を、あるいは自分の「生」全体を改めて振り合える季節となってきました。共にその歩みへと静かに入ってまいりましょう。


1月

   「この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、
    暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。」
              『ルカによる福音書』第2章。「ザカリヤの賛歌」より

 御子のご降誕・顕現を祝いあわせて新春のお慶びを申し上げます。
 神の栄光が、この世界に現れる(顕現=エピファニー)。これがクリスマスから続く1月「顕現節」の主題です。

 冒頭に挙げた洗礼者ヨハネの誕生に際しての父ザカリヤの賛歌もこの主題を歌っています。私事で恐縮ですが、父は生涯、毎年クリスマス・カードではなく、「顕現日カード(1月6日)」を出していました。12月末が多忙で、その時期のクリスマス・カードや年賀状を欠礼してしまう代わりの妙案でもあったでしょうが、それ以上の思いもあったことと想像します。
 12月25日が西方教会で主の降誕の祝日となっていく一方で、東方教会では1月6日が降誕を含めた、主の顕現(公現)の大祝日となっていました。どちらも冬至に関係した日取りです。同時に「三人の博士の来訪」「主の洗礼」「カナの婚宴」の祝日や福音朗読が、この時期にきます。いずれも主イエスのお働きが「世に現れた」ことを記念するものです。主の「受肉」「誕生」「顕現(エピファニー)」という主題を、今わたしたちはこの季節に記念し祝っています。そしてわたしたちの使命は、この世界の、とくにその暗闇の中に輝くキリストの光を、証ししていくことなのです。