<今月の一言 -今月の祈り->
9月
「パワーの源」「み言葉の福音」:三浦雄一郎氏のエヴェレスト登頂
執事 李 民 洙
今年5月22日、世界最年長者としてエヴェレスト(Mt Everest、8,848m)の頂上を征服した三浦雄一郎氏(70才)が、NHKの「エンタプライズ21」という番組(今年7月1日放送)にゲストとして招かれ、登山の準備から頂上に登るまでのことを話した。彼のエヴェレスト登頂は、1953年5月29日ヒラリ(Sir E.Hillary、当時34才)とテンジン(N. Tenzing、当時39才)が初登頂に成功してからちょうど50年目のことである。
私は、今年、聖パウロ教会のファミリー・キャンプの行きと帰り道でバスの正面に高くそびえた荘厳な北アルプスの山々を見ながら、あれが2,000mも超える山であろうと思いながら、8,848mのエヴェレストの雄大で荘厳な姿を想像した。
三浦氏によれば、エヴェレストに登るとき、一人が運ぶ荷物は普通20−25kgにもなるといわれる。へー、なるほど、20−25kgにもなるのか、それを70才のおじいさんが8,900mのところまでかついで登ったのか。三浦氏は、そのためにきちんとした計画に基づいた5年間の訓練をしたのである。やっぱり、長い準備があったのだ。
彼が頂上に到着する瞬前、酸素が切れたといわれる。その時、彼は視野がどんどん狭くなり目の前が真っ白くなった。その上、何にも聞こえなくなったという。しかし、再び酸素を吸うと視野がワット広くなって耳も聞こえるようになったと彼は証言した。
8月22日から24日まで、昨年に引き続き聖パウロ教会の「20年後を考える会」の集いが行われた。子ども2人を含め10人の人たちがともにすることができた。現在聖パウロ教会が抱えている問題を含め、将来に向けての教会の希望を打ち出すために準備をする目的を持っている集まりであった。しかし、この集まりに関して、実際20年後教会を担っていく若い人たちだけの集まりであると誤解を招くかも知れない。ここで明確にしておきたいのは、「20年後を考える会」は、決して、若い人たちだけをその対象にするのではないということである。三浦氏のように、無限な可能性への希望を持ち続けてきた聖パウロ教会の年輩の皆さんに対する積極的な呼びかけでもあるのだ。教会の20年後を考えるというのは、若者はもちろん、年輩の方々もともに担うべき特別な権利である。
番組の最後で、「パワーの源は」という質問に対して、三浦氏は「夢があるところ」と答えた。キリスト者である私たちにとって「夢があるところ」というのは、「み言葉の福音」であろう。私たちが福音の源に戻れば、「今」私たちが何をすべきなのか、視野が広くなり、耳にはものが聞こえてくるであろう。
8月
執事 李 民 洙
8月、平和の鐘を鳴らそうよ。
時間は矢のように流れ、早くも8月になりました。8月は年中最も暑い季節で疲れやすくなりますので大体の人は休みをとります。しかし、教会は8月になると逆にいろんなキャンプやプログラムで忙しくなります。特に、今年予定しているファミリ−キャンプは現在同教会の担任牧師である植田仁太郎主教参加のもとで8月8日(金)から10日(日)まで長野県にある蓼科高原の『蓼科白林荘・白林台キャンプ場』にて行われます(テーマ:「こどもも大人も一緒に賛美の歌を歌おう」)。
昨年10月30日から11月5日まで韓国ソウルでは日本聖公会と大韓聖公会などの後援によって「21世紀人権展−丸木編」が行われました。身の毛もよだつような原爆の悲惨さを描き続けた丸木伊里(1901-95)と丸木俊(1912-2000)ご夫妻は既に亡くなられましたけれども、彼らが残した作品は世界に知られています。
昨年、韓国の人々も彼らの優れた作品に接することができました。
その中でも、特に、私は三つの作品に目がとまりました。
その一つは、「からす」(1972)であります。
この作品には当時まだそれほど注目されていなかった在日コリアンの被爆者が描き込まれていました。
次に「米兵捕虜の死」(1971)。
これは、原爆の被害者は日本人だという一般概念を強く否定すると同時に、その被害者の中にはアメリカ人も存在するのだというメッセージを訴えていたのであります。アメリカでは米国の原爆によって犠牲になった人々のうちに23人のアメリカの若者が含まれていたことに関して一般的に知られていないかもしれません。
最後に私の目をひいていたのは、丸木展の第15部を飾っていた「長崎」という作品です。
この作品には十字架に付けられたキリストの姿が描かれています。日本共産党員であった丸木伊里の作品のなかにキリストの十字架が描かれているのは驚きでした。
アメリカやイギリスによる戦争の亡霊が今年も世界中を席巻しています。その中、日本にもその亡霊が影響を及ぼしているようです。6月4日、日本のキリスト者たちは日本の文部科学大臣や衆・参議院議長宛に子供や青年たちへの平和教育を訴える「要望書」を、6月9日には内閣総理大臣と衆・参議院議長宛に「有事関連三法成立に対する抗議声明」を出しました(今月の月報に掲載)。
日本キリスト者たちの平和への念願に従い聖パウロ教会は、例年のとおり、今年も8月6日午前8時15分(広島原爆被爆時間)、9日午前11時2分(長崎原爆被爆時間)、そして8月15日正午(終戦記念日)に、主の平和を祈りながら戦争の亡霊を追い払う教会の鐘を鳴らします。
どうぞ、時間が許す方は共に平和の鐘を鳴らしながら祈りましょう。
主の平和が皆さんと共に。
7月
司祭 小笠原 忍
そ の 節 々 で
1963年8月、ミラノで第二次世界大戦で戦禍にあいながらも、奇跡的に損傷を免れたレオナルド・ダ・ビンチの壁画「最後の晩餐」を観た。1999年、20年にわたる修復洗浄で綺麗になったようだが、当時は少しぼけ、焼けたものであった。
最近、この絵画にまつわる逸話を目にした。それは、レオナルドがピエトリ・パンディネッリという魅力ある青年を「イエス」のモデルに選んだ話から始まるもので、絵の完成には3年かかったという。
ユダの部分があとに残り、彼はあちらこちらの盛り場・いかがわしい場所で「ユダ」のモデルを捜し廻った。画家特有の鋭い洞察力でユダの人となりを表わすにぴったりの人物を物色、ついに退廃的放蕩三昧が顔に滲み出た感じの、どこからみても「ユダ」のモデルとして完璧な男を見つけた。絵を描き始め暫くして、レオナルドは、どうもその男に見覚えがあるように思われたので、どこかで会ったことがあるかどうかを訊ねた。「ええ、会いましたよ。でもあれからこっち、色々ありましてねぇ。」次いでこの男はパンディネッリと名乗り、前に「イエス」のモデルをした・・・と告げたという。
一人の人に相反する、聖性に向かおうとする性と、罪性に向かおうとする性、この両性が内在する。「昔、神童、今、只の人」という語がある。聖者のモデルになれた同一人物がユダのモデルへと流れてしまう。何か共通な方向性があると思われ、一般的な人間性の表現かも知れない。気をつけねばならないことだ。
逸話の部分「色々ありましてねぇ。」とはむしろ、人生は、人それぞれに色々あるものと言い切る方が正しくはあるまいか。だからこそ、その人、その時々の分岐点で、どこに立ち、どの方向に向かうかが、極めて大切なことだ。
自分の全存在を何に委ねて進むのか。「人は神と富とに仕えることはできない。(ルカ16・13)」とある。謙虚に神に、つまり、時には自分にとって選びにくいが、神のみ言葉だからと、厳しい、難しい、避けたい、苦しい方を選択できるかどうかが肝要である。それには神への信頼と敬虔さが、日常の祈りの生活と協働の礼拝でどれだけ培われているかが、鍵だといえよう。
6月
聖パウロ教会創立127周年を迎えて
執事 李民洙(りみんす)
今年6月の聖霊降臨日(8日)、聖パウロ教会は創立127周年記念を迎えることになりました。おめでとうございます。
聖パウロ教会は(以下、教会)、日本全土が揺れ動く明治の初期である1875年12月、イギリスChurch Missionary Society(CMS)からのJ. パイパー師が東京の京橋区祝橋に設立した講義所とともに始まりました。しかし、教会はこの日を創立記念日として守っていません。それより、講義所が設けられたその翌年の聖霊降臨日に行われた洗礼式をもって教会の創立記念日として守っています。その最初の洗礼式によって第一号の受洗者(戸井田正常)が実りとして与えられました。つまり、教会の先輩たちは、講義所が実っていく宣教の働きを教会の最も大事な働きであると考えたのではないかと思われます。 「七転八起」という言葉がありますが、七回転んでも八回立ち上がる、つまり目標を成し遂げるための強い闘志をあらわすときによく用いられる言葉であります。
教会の127年の歴史はまさに「七転八起」の歴史でありました。教会が創立してから教会は、戦災などいくつかの理由によっていままで6回も聖堂を再建してきました。そのなかでも特に、1945年の空襲によって聖堂が全焼した時は1951年渋谷の地に第5番目の聖堂を立てるときまで6年間も信徒の家を巡回しながら礼拝を守ったこともありました。現在、目黒区五本木にある現在の聖堂は教会が再建した6番目の聖堂であります。
これをみると、教会はほぼ22年に一回のペースで聖堂を立て続けてきたということになりますが、これは驚きです。そうする中でも、教会は紀伊国橋近くの講義所(1877)、本所松倉町講義所(1879)、深川区富岡門前仲町と京橋越前町における伝道(1886)、1887年房州大貫における伝道(現在の安房大貫基督教会)、1887年館山における伝道(今の館山聖アンデレ教会)、1901年鞠町の講義所(今の聖三一教会に合併)、など開拓伝道を常に行ってきました。
まさに東京に立てられたCMS宣教の初めの拠点として宣教に力を注いできた教会であります。教会が日本の地に立てられた意義がここにあり、教会が一つの教会として常に戻っていくべき信仰の原点になる働きがここにあるのではないかと思います。
そして、これこそ聖パウロ教会という名前に相応しい歴史として誇るべきものではないかと思います。
皆さん、127周年を迎えお祝いをすることはもちろん、もう一度教会が担うべきこれからの宣教に関して一緒に考えてみませんか。主の平和が皆さんとともに!
5月
戦後日韓聖公会の絆に伴う神の和解と平和への御旨に従って
執事 李民洙(りみんす)
私は、今年の四月、韓国の大韓聖公会ソウル教区から東京教区の方へ派遣されました李民洙(りみんす)執事です。私は歴史のある聖パウロ教会の皆さんとともにすることができたということに関して心から感謝すると同時に嬉しく思っています。
歴史的に日本聖公会と大韓聖公会は、明治期からいままで100年以上の関係を持っています。特に明治期から戦争が終わる1945年まで、日本は歴史的に帝国主義が社会の全てを覆っていた時期でありました。そのような日本の社会的な風潮は、両国において政治的な側面のみにとどまらず、宗教的な側面、つまり両国聖公会の信仰的交わりにおいても影響を及ぼしたでしょう。しかし、戦後、1970年代から両国聖公会は同じ信仰告白をする家族として再び交わりを持つようになりました。それは、今年で20年目になります。さらに、1996年度の日本聖公会総会において「戦争責任告白」という告白を採択し、それを世界の聖公会にも知らせたということも聞いております。つまり、私がここで歴史的な出来ことに関してくどくどしく述べているのは、いま私が東京の聖パウロ教会にくるまで、100年にのぼる間、両国の聖公会が築いてきた貴重な歴史的な過程があるんだという点を指摘しておきたかったからです。私は、両国の歴史、特に戦前の痛ましい歴史を乗り越えていこうとしてきた戦後の両国聖公会の和解と平和への絆をより大事にしながら、皆さんとともに神様のみ言葉をこの世に述べ伝えていきたいと思っています。
また、執事でありますから、日本の文化、特に歴史のある聖パウロ教会の皆さんの信仰的お働きを尊重しながら、執事として出来ることは植田主教、小笠原司祭そして大町司祭の御指導のもとでやっていきたいと思っています。まだまだ日本語の不十分なところもあり皆様にご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、これから、どうぞよろしくお願いいたします。
4月
新しい歩みへ向けて
司 祭 加 藤 博 道
すでに皆様にお伝えいたしましたように、私はこの度、東北教区の被選主教となり、4月からは仙台へと移ることになりました。2月11日に同教区の選挙が行われて以降、私にとっても激動の日々で、教会のさまざまな働きに支障をきたしたのではないかと申し訳なく思っています。このような召しに適う働きを自分は出来るのだろうかと思い悩みましたが、最終的には受諾の決断をしたことも、すでに申し上げた通りです。
聖パウロ教会での勤務は、2000年7月からですので、2年9ヶ月という短いものとなり、そのことは大変残念に思っています。しかし3年に満たない時間の中で、皆様とご一緒に働けたこと、さまざまな出来事は、実に鮮明な、強烈な記憶として自分の中に生き続けるだろうと思います。「オープン・チャーチ」や黙想会、日曜学校の多くのこどもたちの笑顔、充実したスタッフ陣、豊かな婦人会や壮年会の交わり、この3年ずいぶん忙しく活動してくださった聖歌隊、活発なさまざまの奉仕グループ、会議室がいつも溢れていた聖書の会、結婚された方、洗礼・堅信を受けられた方々、そして葬儀。ご家族のことや教会の仲間たちの顔、顔・・・。大変充実して力強い聖パウロ教会に身をおいて、皆様とご一緒に働くことができましたこと、改めて御礼申し上げます。一方、ご病床の訪問、家庭訪問等、もっともっと為すべきことがありながら、努力不足であったこと、お詫び申し上げなければなりません。
4月以降、植田仁太郎主教様が管理牧師の任を担ってくださり、小笠原忍司祭が嘱託として御奉仕くださることになりました。そして牧師館には新たに、李民洙師が執事として定住し、勤務されることとなりました。詳しいご紹介はまた改めて植田主教様からしていただけることと思います。むしろ大変充実した、意欲的な展開がこれからも可能なのではないかと思います。信徒の皆様が、これまで以上に礼拝や事務所のこと等、ご奉仕いただくことになり、ご苦労もあるでしょうが、しかし同時に信仰者の共同体、信徒の教会としての実力を、さらに蓄えていかれることと存じます。
物理的、距離的には離れますが、まさに主にあって一つ。聖パウロ教会の新しい歩みの上に主の祝福をお祈りいたします。私の働きのためにも、どうぞお祈りください。
3月
司祭 加藤 博道
「聖書の集い」-マタイ福音書-を終えて
毎週水曜日午前11時から「聖書の集い」が行われ、2002年の9月からずっと「マタイによる福音書」を読み続けてきました。毎回教会の会議室がいっぱいになり、窮屈なくらいであったことは、本当に嬉しいことでしたし、そしてついに先日2月12日をもって全28章を約2年間かけて読み終えることができました。
聖公会は、宗教改革の原則として言われてきたような「聖書のみ」の教会ではありません。聖書と「伝統」、さらには不完全であるとはいえ神から与えられた賜物のひとつである「理性」、さらには生きた人間としての「経験」、それら全体の総合の中に、神の導きを見い出そうとする教会ということが出来ます。聖書自体が、ご復活キリストに出会い、信仰の共同体を成立させた最初の人間の、理性や経験を通して書かれたものであり、それ自体が教会の伝統の一つなのだということもできるでしょう。
にもかかわらず、やはり聖書はキリスト教信仰と生活の中心的な規範として存在しています。「聖書を勉強することが教会」ではないけれども、教会生活の中に、やはり聖書的信仰がきちんとしていないならば、その教会は大切な土台を失い、儀式も形だけであったり、たんなる人間集団となってしまいます。そしてまた同時に、聖書は一人で読もうとしてもなかなかに難しい物です。それはつまり、聖書が教会の共同体の信仰の書だからです。教会の仲間と共に集まり、共に聖書を読むとき、まさにそこにお互いの理性や生活経験が持ち寄られ、そしてなによりも聖霊の導きの中で、新しい光が読む者の上に差し込んでくるのだと信じます。
約2年半の集いに感謝します。もちろん参加したくても、この時間帯では参加できないという方も多くあられたことと思います。さまざまな機会を捉えながら、人と一緒に聖書を読む喜びと大切さを、さらに分かち合っていただきたいと思います。5月頃からは、「英語で聖書を読む集い」も計画されています。英語が得意・不得意ということではなく、異なる言語を通しての、聖書体験となるのではないでしょうか。そしてどうぞお一人お一人が、他の人に向かって聖書の話ができるようになっていただきたいと願っています。
2月
司祭 加藤 博道
シメオンの賛歌 わが目ははや 主の救いを見たり(2月2日・被献日)
「主よ、今こそ御言葉にしたがいて、しもべを安らかに行かしめたもうなれ
わが目ははや、主の救いを見たり
これ、もろもろの民の前に、備えたまいしもの
異邦人を照らすひかり、御民イスラエルの栄光なり」(『ルカ福音書』第二章)
降誕日から数えて40日目(教会暦では2月2日・被献日)、イスラエルの伝統に従って、ヨセフとマリアが幼子イエスを連れて神殿に詣でたときのこと、いつも神殿にいて、イスラエルの救いを待ち望んでいた老人シメオンが、幼子イエスを腕に抱いて歌った賛歌、「シメオンの賛歌(頌)」です。シメオンは「メシアに会うまでは決して死なないとのお告げを聖霊から受けていたと、聖書は書いています。「決して死なない」、逆に言えば「死んで安らぎに入ることができない」ということです。
この賛歌は、古代から修道院の夜の聖務時祷で歌われ、聖公会では16世紀の祈祷書成立のはじめから「夕の礼拝(晩祷)」の第二日課後の賛歌(カンティクル)として愛されてきました。スイスのカルヴァン派やルーテル教会の聖餐式では、礼拝の締めくくりの部分で歌われます。「わたしはあなたの救いを見た、安心して行けます」ということでしょう。同じような意味で、葬儀の最後の部分でも歌われます。ある方の葬儀のとき、まさに棺が火葬とされようとするそのときに、ご家族がこのシメオンの賛歌を声高く歌われたことが忘れられないと、礼拝の説教でもお話したことがあります。
よほどシメオンは待ち望んでいたのだと思います。「わが目ははや、主の救いを見たり」しかしシメオンはまだ何も見ていないのです。大きく成長したイエスも、イエスの立派な説教も、奇跡的な業も、何も見ていないのです。目の前にいるのは小さな赤ん坊と、その貧しい両親です。しかしその小さな幼子の中にシメオンは大きなしるしを見ることが出来たのです。一方、私たちは時として、かなり大きなしるしを見ていても、何も気づかず何も感じないということが多いのでは無いでしょうか。小さなしるしの中に、大きな神の業を見い出す者でありたいと祈ります。
1月
司祭 加藤 博道
新しい1年に向けてー寛容・ユーモア・コモンセンスー
主の年2003年、新春のご挨拶を申し上げます。
また主のご降誕、顕現を祝う季節、皆様のご生活の上にますます豊かな主の祝福をお祈り致します。
昨年一年の教会の歩みを振り返っテ、みなさまはいかがだったでしょうか。クリスマスに発行された『聖火』(当教会の教会報)を見ましても、教会として精一杯、またお一人お一人も精一杯、今日を生きるキリストの教会として、よりふさわしくあろうと努力している、そんな印象を持っています。かなり忙しかったと感じておられる方もいらっしゃることと思います。
ローマ・カトリック教会には、たとえば学問・説教に中心を置くドミニコ会があり、またサレジオ会は教育の分野に、カルメル会は厳格な祈祷と修練の観想生活にと、それぞれ専門的な領域を持った共同体があります。ベネディクト会は典礼の伝統を保つ上で大きな働きをしましたし、さらに修道服も着ないでジーパンをはいて社会活動に専念する修道会等もあります。一方、聖公会は宗教改革の時に、基本的には修道院を閉鎖してしまいました。もちろんその後、さまざまな修道院運動は起こりますが、ローマ教会のようにはなっていません。そして聖公会は教区と街の教会(パリッシュ)を中心とする教会となりました。街の教会が規模の大小はあっても、みんなローマ・カトリックの諸修道院が担うようなさまざまな働きを、程度のさこそあれ、引き受けようとしている、そんな面があります。学習的な要素、黙想的な要素、活動的な要素、そして礼拝の伝統を保ち、さらに深めて行こうと言う努力。それらはみんな必要なのです。しかし一方、限られた力の中で、それに追われ過ぎてしまうと「教会の生活」が負担になっていってしまいます。そこのところをどうするか。なすべき多くの事柄を大事にしつつ、同時に「ゆとり」をもっていられるか、これが今年の課題かも知れません。
竹田眞前教区主教があるところで、聖公会の精神とは「寛容・ユーモア・コモンセンス」と書いておられました。もちろん決していい加減な意味ではありません。自分たちがみんな神様に造られたものであるという信仰的確信に基づいて、人間的な限界をわきまえ、自己絶対化をせず、なお自他に対して誠実であること。喜んで仕事をすること。決して簡単では無い。聖公会の「街の教会」の霊性がここにあると思うのですが、いかがでしょうか。

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