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日 記 抄
池袋聖公会 浅井慎吾
七月二八日(土)
「一八時三十分出帆夕日にもえる緑の山々を後に刻々内地を離れる。出帆後四十分にして触雷、船腹に穴あき浸水甚だしく刻々沈下す。ただちに準備せんとせしも混乱甚だしく容易にできず、平素周到なる用意の肝要なるを痛感す」
これは昭和二十年(一九四五年)の七月二八日の私の日記の一節です。
陸軍航空士官学校に在籍していた私は、戦闘機操縦訓練のため満州(現在の中国東北部)に向かうべく舞鶴港を出港しこの事故に遭いました。
触雷とは米軍が日本海沿岸に投下した機械水雷に触れたことです。
一刻を争って海中にとびこみ、退避しましたが、頭上から米軍機の機銃掃射を受け、その弾丸がビシッビシッと海面に刺さり、まさに生きた心地がしませんでした。
そして数メ−トル先を泳いでいた同期生が太ももを撃ちぬかれ、舞鶴の海を血に染めながら沈んでゆきました。
八月十五日(水)
「午前一二時兵舎前に整列、畏くも大詔を拝す。神国日本は敗れたり。然り而して決して滅びたるに非ず。・・・・・」
これが私の戦争体験であり、終戦の日の所感であります。
当時満十八歳そこそこの一青年の日記ですから現代の同世代の青年には理解が困難かと思いますが、敢て原文のまま記しました。
戦争は国家権力の激突であり、人の殺し合い、物の壊し合いあり、より多くの人を殺したものが勇士として讃えられたのです。
つまり狂気でなければ到底できないことです。
満州事変から十五年間この狂乱の時代が続き、その中で捕虜虐殺や婦女暴行がくりかえされました。
「戦争とはそういうものだ。いつの時代の戦争でも捕虜の虐殺や婦女暴行はあったのだ」という人もありますし、そういう事実もあったようです。
しかし、抵抗する術もない弱者を殺したり辱めたりしたことについては、深く自省しきちんと謝罪すべきであります。
二十年ほど前の池袋聖公会で行われた「敗戦記念平和祈祷会」で、
八木立三先生(執事)が
「上官の命令とはいえ、私は捕虜殺害の現場に立合っていました。その時の痛み、悲しみは生涯私の胸から去らないでしょう」
と涙ながらに話されました。
人を殺すということ、人に殺されるということは、どれほど恐ろしく、怖く、つらく、悲しいことでありましょうか。
それが平然と行われるのが戦争なのであります。
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