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東京大空襲体験記

浅草聖ヨハネ教会 森 美和子


 その時、私は深川区猿江町に長兄と姉と弟と4人で住んでおりました。
昭和20年3月9日は午後からすごい北風が吹き荒れておりました。
夜十時半頃警戒警報が鳴り、飛び起きてラジオをつけると、敵の大編隊が房総沖を来襲中とのことでした。
そこで皆で防空濠に入っていたのですが、夜中の零時を回っていたでしょうか、消防団の人が
「焼夷弾だ、防空濠から出ろ」
と叫ぶのを聞きました。

 表に出てみると西の方角が視野いっぱい180度の方角で燃え上がり、空からは焼夷弾が雨霰と落ちてきていました。
大人たちは、
「高橋よりも遠いから水天宮の辺りかな」
とはなしていましたが、誰からとなく、
「危ないぞ、逃げろ」
という声でざわめいたと思う間もなく、私と弟が二人きり取り残されてしまいました。

 家は表通りから少し入ったところにあったのですが、私は小さな柳行李を持ち、弟はボストンバッグを持って表通りに出ますと、路地という路地から、何処にこんなに人がいたのかと思うほど、どんどん人が出てきて、猿江恩賜公園の方へ向かっています。
人の流れのように電車通りに出て、右に曲がり、小名木川橋に向かいました。
横を通る大八車に荷物を乗せてもらい、後から押して橋の途中まで行きましたが、火の粉と風がもの凄く、大八車に火がついてしまいました。
柳行李を車から降ろした途端、紐が解けて蓋が開き、その途端に中の衣類が風に舞って全部飛んでいってしまいました。
進むか退くかためらいましたが、結局戻ることにしました。
風がすごいので立って歩くことも出来ず、這うようにして橋のたもとにあった交番にたどり着きました。
周りは強制取り壊しで原っぱになっており、コンクリートの交番だけが建っていました。
川を見ると、五人乗り、一〇人乗りぐらいの小舟が後から後から燃えながら漂流していました。
交番の戸を叩いて入れてもらおうとしても、なかなか戸を開けてもらえません、子供二人で荷物を持っていないからと訴えて、やっと中に入れてもらいました。
一五、六人の人が満員電車に乗るように入っていました。
そこで夜を明かしたのです。
その間ひっきりなしにドラム缶か何かの爆発音を聞きました。
小さい窓から外を見ると、錦糸町、深川八幡、木場の方が盛んに燃えていました。
夜が明けて外に出ると、辺りはもう全部焼け落ちていました。
五〇ぐらいの女の人が火膨れになって顔面蒼白、虫の息で交番に寄りかかっていました。
錦糸町行きの市電の線路には七歳ぐらいの女の子がうつぶせになって死んでいました。
どこも焼けていなかったので、煙りによる窒息死だったのでしょう。
兄や姉を探して住吉町まで行きましたが、丸焦げ、半焦げの死体が仰向けになったり、手を伸ばしたり、様々の体位で重なって道をふさいでいました。
死体を跨いで行くのですが、電線の焼けた臭いや死体の脂の焼けた臭いに混じって、今思い出してもぞっとするような嫌な臭いでした。
兄達に会えないので住吉町から家に戻りましたが、その途中にも数限りない死体を見ました。

近くの警察署もすっかり燃えていましたが、貯蔵していた豆炭に火がついていて一時そこで暖をとりました。
その警察の拘置所には囚人が鉄格子にしがみついて死んでいました。
家に帰ったら、残り火はあるものの、焼け野原で何もなく、水道の水だけが噴き出していました。
近所の防空濠では一人の女性が金庫を抱えて階段に足を掛けたままの状態で焼け死んでいました。
しばらく待つうちに兄と姉に再会し板橋の叔母の家をめざすことにしました。

 弟は火炎によって目をやられていたので、近所で焼け残っていた乳母車に乗せて行きました。
小石川辺りからは焼けていず、電車を待つ人などが、私達を見てかわいそうにかわいそうにと声を掛けてくれました。
板橋に着いて櫛を借りて頭をとかそうとしても焼け縮れて櫛が通りませんでした。
叔父が行方不明なので、明くる日かその次ぎの日だったと思いますが探しに行きました。
言問橋辺りから隅田川の河原に降りていったら数百の死体が、並べられていましたが叔父はいませんでした。
丸焦げ死体は軍が出動してトラックで運んでいったので、おそらくその中に含まれていたのだと思います。

 以上が、3月10日未明の10万人の死者をだしたB29による下町絨毯爆撃の被災体験記です。

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