今回の修道院での研修に当たり、その契機となりましたことや、目的、動機を記すことから始めたいと思います。
神学校を卒業して丁度十年目の折り、ふと振り返ってみますと、洗礼を受けてから既に四半世紀の時が過ぎ、その中で、キリスト教(信仰)に対する理解や、自らの在り方は、思いますにいろいろと変化を辿ってきました。一つには、神学という学問を通して受ける影響があったことは否定できませんが、一方、毎日の生活の中で起こる人や物事との関わりの中で、他の人々からすれば「何を今更…」と思われるかも知れませんが、改めて「キリスト教信仰の本質とは?」「クリスチャンで在る(在る続ける)とは?」「聖職者に委託されている役割とは?」そして、「霊性とは?」といった事柄に思いを馳せると同時に、これらのテーマを絶えず神様に問い掛け続け、また、自らの中でも確認し続けていくことの重大さを、改めて強く思うようになりだしました。
そもそも、キリスト教信仰に於て、神様の中に生かされている私たち一人一人にとっての最終的、また究極的な目的とは、「神様(イエス・キリスト)に出会うこと」「神様(イエス・キリスト)を見ること」「神様(イエス・キリスト)と一つになること」であると言えます。
そして、現にキリスト教の初期の頃から、多くの人々によって、いろいろな形の運動が展開されてきましたが、その中で人々は、手に取って見ることのできない神様を見、触れようと努めてきました。そのような信仰生活に於ける基本的なテーマや動きの中で、「修道院(修道生活)」というものが作り上げられてきたと理解していました。
このようなテーマを貫いている修道生活とは、単に「清廉潔白な人々」「浮き世離れした人々」「世俗の煩わしさから逃避した人々」の何れの集まりでも無く、言うなれば、最も純粋な形で「神様に出会おう」「神様を見よう」「イエス・キリストと一つになっていこう」という人々の集まりであり、共同生活であるように考えております。そして、このことは、私たち人間の側からの一方的な希望や思いでは無くて、神様の、イエス様の方からの願いでもあると思えてなりません。
いろいろと述べてまいりましたが、今一度簡単に纏めてみますと、

と言い表せ、また、その道程こそがキリスト教信仰の歩みではなかろうかと思えます。今ここに書き記しましたようなことを、そして、「修道院の歴史」「修道生活」に付いての講演を聴く機会が与えられました折り、そこから示唆と課題を受け、改めて「信仰」「霊性」といったことを思い巡らし、それに付いて更に深めていきたいということが、この度の研修の発端ともなった次第です。
更にもう一つ、これまた個人的なことになりますが、それを付け加えておきたいと思います。二十五年程前、洗礼を受けてクリスチャンとなり、後々神学校、伝道師、執事、司祭というプロセスの中、或いは、毎日の生活の中で、ここに逐一書き記すことは出来ない程多くの、また、様々な出来事がありました。また、いろいろな人々との触れ合いや出来事を通じて、時の経過とともに、自分自身心底「霊性」が欠けているという感覚、しかし、同時にそれに飢え渇いている実感が徐々に強まってまいりました。
適切な例えになるか分かりませんが、どれ程見た目が立派で、格好も良く、内装や、様々な装備がなされていても、肝心要のエンジンという部分がしっかり、力強いもので無ければ、自動車本来の働きをなすことは出来ません。正に、「霊性」とは、自動車に例えるなら、エンジンの部分に当たるのではないだろうか。そして、それがしっかりと整えられていなければ、幾ら外側がすばらしく見えても、それはより良く走り続けていくには無理があるのではないだろうか。そのようなことを、(これも聖霊の導き・促しと言って良いのかも知れませんが)次第に強く感じ始めてまいりました。
「自分には、(エンジンに例えられる)「霊性」が欠けている」。「しかし、恥ずかしながら今やっとそれに気付き始めた」。「同時に、霊性に飢え渇いているという感覚も、日増しに強くなってきている」。「何とか本物の霊性に付いて学び、それをしかっりと身に付けていきたい」。「更には、これからも、それに(多少変な表現ですが)飢え続けていかれるようでありたい」等といった心の動きが、自ずと「修道院」「修道生活」へとつながっていったと言えます。
この紙面には、言葉足らず故に十二分に書き尽くせていない部分もありますが、右に述べましたようなテーマを基本に据え、目標としている生活、即ち、修道生活の中に身を置き、実際に体験・経験していくことを通して、改めて自らの生活や働きを顧み、或いは、深め、その拠って立つべき所を、自分自身の中にしっかりと据えることができたらというのが、研修を希望しましたそもそもの理由であると申せます。