冒頭に既に書き記しましたが、キリスト教信仰の究極のテーマ、最終的なゴールとは、「神様を見る」「イエス様(キリスト)を見る」という言葉に尽きると言えましょう。それをどのようにして、或いは、目で見るか、心で見るか、体を使って見るか、いろいろあるかも知れませんが、とにかく「神様を見る」「イエス様(キリスト)を見る」ということでありましょう。そして、それはパウロが繰り返し、繰り返し、それこそしつこい程に言っていることでもあります。
それでは、どうしたら神様を見ることになるのか、イエス様を見ることになるのか、どういうことを以てそういうことが言えてくるようになるのか、修道生活というものは、まさにこのことを常に追い求めていく生活であります。如何にして神様を見、イエス様を見、そして、キリストと一つになっていかれるかということを究極のテーマとして追い求めていく生活、それが修道生活であると言えます。したがって、この世からの逃避ではありません。
そして、このテーマを追い求めていく上で、いろいろなことが起こります。ある人は、貧しい人々、死に行く人々の中にキリストを見る。あるいは、教育という働きを通して、子供たち、若い人たちの中にキリストを見る、そして、それらの人々に仕えていく。あるいは、説教や学問を通してキリストに触れていく動き等がなされます。
ところで、よく「修道生活の中で、何が一番厳しいですか?」と訊ねたこともありましたし、帰国してから、私自身訊かれたこともありました。「朝早くて大変でしょう」とか、「お祈りの時間が一日に何回もあって大変でしょう」という質問を、度々されました。確かに、最初のうちは朝四時半に起きることは、大変でもありました。しかし、そのようなものは毎日の生活のリズムとして慣れてしまえば、然程大きな問題や困難ではありません。
寧ろ、修道生活の中で最も厳しいことの一つに数えられることは、「全ての事柄を自らの責任に於て」ということでありましょう。「これは、私の責任に於てなすこと」「これは、あなたの責任に於てなすこと」「これは、私たちの責任に於てなすこと」−「責任」という言葉を、「神様との約束」という言葉に置き換えることもできるでしょうが−であり、その辺りのけじめや区別が、極めて厳しい形で保たれていました。但し、誤解を避けるために一言付け加えるなら、「これは、私の責任に於てなすことであるから、一切他人には手を出させない」とか、「これは誰々の責任に於てなすとであるから、自分は一切手伝わない」ということでは勿論ありません。
そのようなことを目の当りにさせられて、改めて考えてみますと、厳格な規則一点張りの「律法主義的」なほうが、うるさく、厳しく、煩わしく思えるようで、その実「ああしなさい」「こうしなさい」「こうしてはいけない」「ああしてはいけない」云々を逐一指図をしてくれるということで、寧ろ楽なのではないだろうかとさえ思わされます。それは、「決疑論」というものに通じるのでしょうが、あらゆることは律法が決めてくれ、その決められた通りに動けば良いために、自らの責任と決断に基づいて動きをとっていくよりは、遥かに楽でありましょう。
そんなことを思いながら、かつて八代斌助主教が書かれた本の中の一説を思い浮かべました。「思うに、キリスト教国と、キリスト教国でない国民の一番大きな違いは、自分のためにすべき分をわきまえ得るか、わきま得ないかによってしばしば現わされる。キリスト教国の人たちは、『これは自分のなすべき分』『これはあなたのなすべき分』「これは私たちのなすべき分』といったことを、きちんとわきまえる教育を受けている」。
この言葉を借りて申し上げるなら、「これは私の責任に於てなすべきことです」「これはあなたの責任に於てなすべきことです」「これは私たちの責任に於てなすべきことです」というけじめや区別が、修道院の中では保たれていました。