私たち日本人の感覚的なものかも知れませんが、あたかもイエス様を師に見立てて「三尺下がって師の陰を踏まず」式の物の考え方があるように思います。一尺が約三十三センチですから、掛ける三で九十九センチ下がって、師、即ちマスターの陰を踏まずというのを、私の英語力ではとても正確に伝えることは出来ませんでした。とにかく、「謙遜」「尊敬」「敬意」を表わす、日本人に古くからある慣用的な表現だということを伝えましたところ、「マスターの後ろ姿を仰ぎ見ながらついて行くということは、何となくイメージできるし、言葉としても何となく分かるような気はする。しかし、実際的には良く分からない」という答えが戻ってきました。寧ろ、「I WILL FOLLOW HIM!」というのは、イエス様がいらして、その後ろ姿を仰ぎ見ながらついて行くという、言うなれば「控え目な従い方」「控え目な信仰」ではなくて、「SIDE BY SIDE」というような、横に並んでガッチリ腕を組んで歩んで行く。イエス様と結託して、ガッチリと腕を組み、決してその手を離さないような従い方、それこそが「スピリチュアリティー」(霊性)の中身を解く大事なヒントなのであるということを教えて下さいました。
しかし、振り返ってみますと、私自身「恐れ多くて勿体無いから、せめてイエス様の後ろ姿でも仰ぎ見て…」という感覚を、長らく持っておりました。しかし、「SIDE BY SIDE」「イエス様に、これでもか、これでもかという位に食らい付いて行く」という「意気込み」「心意気」「根性」、或いは、そういう形でイエス様と一緒に道を極めていくという意味で、大変妙な日本語を使いますが、「極道精神」という私たちの姿勢とか動き、心の在り様を指して、スピリチュアリティー(霊性)ということが言えてくるのではということを、大変強く感じました。
私たちの教区主教でいらっしゃる竹田主教が、かつて神学教育の会合での席上で、次のような発言をなさったということを伺いました。「霊性という言葉を、自分は『根性』と訳した」と。ところが、その後、「SPIRITUALITY」という言葉をいくら辞書で引いてみても、「根性」という訳などありません。しかし、何故竹田校長先生(現・東京教区主教)は、そのように訳されたのだろうかという疑問が、以来十何年も私の心の中に残っていて仕方がありませんでした。「霊性」という言葉は、もっと「静か」で、「荘厳」で、という意味合いの筈なのに、よりによって「根性」などという、スポーツの世界に結び付くようなことを仰ることによって、実は「イエス様に食らい付いていく頑固さ」のようなことを言おうとなされたのではと思い始めました。
そのようなことを思いながら、一回が一週間から十日にわたるリトリート(静想会)に参加させてさせて戴いたり、低所得者居住区(所謂スラム)、病院、学校、職業訓練施設などへ連れていって戴いたりという中で、豊かな実りにも与りました。しかしながら、そういう状況・環境の中で、現に人間が生きている、そして、そういう状況・環境の中で働いている修道士たちの姿を見ていますと、何となく修道士やシスターたちの中でイエス様が一緒に働いておられるという、ちょっと理屈では上手く説明できないような思いを、心の中に強く感じました。確かに、二千年前とは状況も、国も場所も違うけれどども、同じような動きが醸し出されていたのではないだろうかと思わされました。同時に、矛盾するような言い方になるかも知れませんが、修道士たちが仕えている人々は、修道士たちの内に豊かに与えられている様々なもの、スピリチュアリティー(霊性)を引き出し、受け取っておられるキリストで在られるのでは、そんなことも痛感させられ、また、しばしば目の当りにさせられました。そして、スピリチュアリティー(霊性)というのは、何かイエス様を彷彿とさせるようなものなのではないかともまた、ふと思わされました。
そのようなスピリチュアリティー(霊性)に支えられながら、毎日の働きに力を尽くしている修道士たちの一人から、こんな話を伺ったことがありました。
「もし自分が信仰というものを与えられず(持たず)に、つまりはクリスチャン、ましてや修道士でも聖職者でも無かったなら、多分もっともっと楽で、楽しい生活を、この世的にはできたに違いない。しかし、今よりも、もっともっと恐れなければならないことも沢山あったと思う。と言うのは、物事の基準や基盤というものがはっきりしないから、移ろい易い。これが流行ればこっち、あれが人気があればあっちというように、フラフラ、フラフラとしていたに違いない。そして、更には、神様よりも人の顔色に絶えず気を取られて、どっち付かずに暮らしていたかも知れない。でも、実際に今自分には、神様やイエス様の言葉やご生涯という確固たる基準や指針といったものがある。従って、そういうものが示されているから、こうして明るく生きていられるように思うのだ」ということを伺ったこともありました。
或いは、どうしても気になっていたことを訊ねた時、こういう話をしてくださった方もありました。「修道士と言えども、生きるためには、着るものも、お金も実際には要るのだ。しかし、自分たちは、お金をはじめとして、物に縛られるということだけはないと思う。何故ならば、一つには、死ぬ時には全部置いていくのだから。最後の最後まで、自分がグッと握り締めて、誰にも渡すまいとして抱え込んでいかれるものは、皆無に等しい。だから、かえって気楽なのだ。今持っているものは、預かっていて、それを使っていると思うから、失ったらどうしようとかいう心配は殆ど無いのだ。だけど、もし人が、心の中に多くの恐れや不安を感じるとすれば、それは大抵不必要なものを多く持ち過ぎているからなのではないだろうか。無くても良いようなものを、多く持ち過ぎた時に起こってくる不安というものがあるのではないだろうか。自分たちのように修道院に居ると、かえって持っていないことによって、魂の健やかさを持てるような気がする」と。
或いはまた、「何時でも、魂や信仰のことを第一位において、ずっと考え続けたり、黙想したり、観想できる生活というのは、ある意味でとても贅沢で、恵まれた生活だと感謝している」という気持ちを伝えてくださった方もおりました。今にして思えば、一年という大変短い期間でしたが、幾つもの実りを戴いて、今度は日本の教会、日本人クリスチャンで在る自分自身の信仰生活を振り返った時に、思ったこと、感じたことを次に述べてみたいと思います。