先程、「スピリチュアリティー(霊性)とは、神様・イエス様に、これでもかという位に食らい付いていく心意気・意気込み・根性」というような言い方をしましたが、しかし、その「意気込み」「根性」「心意気」ということを、違った意味で強めていきますと、どうしても人間肩に力が入り過ぎてきて、顔も強ばり、眉は吊り上がり、眉間には皺が寄り、険しい顔付きになってくるものですが、そういう力の入れ方、意気込みになってしまっては、やはり上手くないと思います。おそらくそこでは、「バランス」というものが失われることにもなってくるでしょう。
そして、「日本人クリスチャン」という言葉で括ってしまって良いものかどうかと思いますが、一つには、ゆとりとリラックスの源ともなる「ユーモア」が、ひじょうに欠けているような気がします。勿論「ユーモア」とは、くだらないジョークやばかげたお笑いとは違います。そうではなくて、心を和ませるものであるはずです。よく「日本人はユーモアが下手である」と言われることがありますが、信仰を豊かなものにしていくには、どうもユーモアのセンスも必要なのではないかという気がします。
例えば、イエス様が「金持ちが天国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうが易しい」ということを仰いましたが、「ラクダが針の穴を通る」などという言い方は、一つのユーモア、ユーモラスな物の言い方と言えるように思えます。そして、このイエス様の言葉を聴いた当時の人たちにしても、歯を食いしばって、肩に力を入れて聴いたというよりも、寧ろ、たいへん微笑ましく聴いていたのではないかと想像します。ユーモアのセンスを私たちが付けるということは、多分イエス様の声をより良く、豊かに、深く聴いていくための、一つの作用になっていくのではと思えます。
何人かの修道士たちにいろいろな場所へ連れて行って戴いて、その働きを見せて戴いたり、一緒にさせて戴く中で、イエス様の姿を彷彿とさせられるということを先程言いましたが、その時に「霊的な生き方」「霊性が豊かになる」ということは、神様の輝きを映し出すステンドグラスのようになる。光そのものになると言うよりも、神様の光を注がれ、それを見ている者、光に浴している者に、美しさとかゆとりと安らぎを与えるステンドグラスのようになっていくことが、「スピリチュアリティー(霊性)が高まっていく」ことなのでは、という課題のようなものを与えられました。
そして、日本に帰って来てからもいろいろなことを考えさせられますが、大きく二つ、三つのことを申し上げたいと思います。