「果たしてこれが、スピリチュアリティー(霊性)に関係などあるのか?」と思われる方々もいらっしゃるかも知れませんが、他の教派のことはともかく、私たちのことを省みました時に、未だ未だ遅れていると言うか、努力を必要としているものの一つに、こういうことがあるのではないかと思います。
それは、日本で福音を宣教するとか、日本で私たちがずっと信仰生活を続けていく、スピリチュアリティー(霊性)を高めていくという時、やはりこれを落としてはならないことの一つは、「日本文化の研究」ではないでしょうか。ただし、「文化」と一口に言っても、伝統・様式・言語・習慣・メンタリティー等多岐に及んでいますが、教会、或いは神学校、修道院では、もっともっとその研究や学びを深め、どのようにイエス様の福音をより分かり易く日本人に伝えていくか、そして、何よりも、自分自身の内にしっかりと植え付け、実らせていくか、その事は必要不可欠ではないかと考えます。
よく渋谷や銀座、新宿などの繁華街で、スピーカーと看板を担ぎ、「あなたがたは罪人です」とやっているのを目にします。確かに、言っていること自体は、聖書の言葉そのものですが、いきなり誰彼問わずに言われた時、はたして何人の日本人が「そうだ、本当にそうだ!」とスムーズに理解、或いは、納得するだろうかと思いますと、先ず難しいと思わざるを得ません。見も知らずの人に、いきなり「あなたは罪人です!」などと言われたら、大抵の人は頭に来るか、「余計なことを…」とでも思う方が、寧ろ普通でありましょう。
そもそも、一つには、あのような物の言い方や言葉遣いが、そのまま日本人の文化の中で生き、日本語という言語を使って生活している私たちにとって、その言葉の意味すること、その言葉が持つ特別な中身を丁寧に伝えること無くして、そのままスッと心に入り込んでくるかというと、やはり何処か無理と言いますか、大きな壁のようなものがあるように思えてなりません。
思いますに、日本に於けるキリスト教は、良い意味でも、そうでない意味でも、未だ未だ、欧米の影響を乗り越えられないところに在るようにも思えます。遠藤周作とうい方が、生前度々こういうことを仰っていました。「寸法が、自分の体に全然合わない着物を着させられて、窮屈で、何となく気持ちが悪い」と。それを一つのヒントにしますと、悪い意味では欧米の受売り、兎にも角にも「有り難い、有り難や…」というところから、もう一歩、二歩と発展していくのが難しい、というのが、ある部分正直なところかも知れません。
しかし、日本人には欧米人と似ている部分もあれば、彼らとは異なった部分、また日本や日本人の持っている、或いは、与えられている素晴らしいものも沢山あるにも拘らず、その辺りのことを、「文化」という面から十二分に研究したり、洞察を深めてきたかというと、未だ未だ大きな課題が山積みにされているのではないだろうかと、改めて日本の外側から見詰め返してみた時、そのように思えた次第です。そのようなことから言えば、「礼拝」一つ取ってみても、ひじょうに大事な問題に突き当たるはずですし、或いは、聖書を読む(聖書に聴く)時にも、時には私たちに大きな誤解を生じさせてしまうようなこともあるかも知れません。
例えば、その一つの例になるかも知れませんが、私自身子供の頃、度々「捨てる」「捨てなければならない」という言葉を聞かされ続けてきました。洗礼準備や堅信準備などの折りに、「クリスチャンになるためには、何かを捨てなければならない!」という言葉遣いを以て、いろいろなお話を伺い続けてきました。確かに、結果的に何かを「捨てる」ということにもなるのでしょうが、しかし、その前にもう一つ言うべき大事なことがあったのではないだろうかと思えます。否、寧ろ、思えると言うよりも、確信に近いものを持てるようになりました。修道院での生活も、そのことへの大きな影響を与えてくれたものですが、それは「選び取る」(「何かを選び取る」「どちらかを選び取る」)ということです。
イエス様が公生涯に入られる時、つまり、ヨルダン川で施洗者ヨハネから洗礼を受けられた時、或いは、もっと遡って、聖母マリアがイエス様を生み出す辺りの動きの中で、或いはまた、イエス様のゲッセマネでのお祈りの時、十字架の上、そのような幾つかの、それもひじょうに大事な出来事の際に、「はい、神様、私は何かを捨てます」「天使ガブリエルよ、私は何かを捨てます」というような受け答えは、見受けられないように思えます。そうではなくて、「神様、私は(これを・この道を・この働きや役割を)選び取ります!」という、極めて積極的な姿勢を貫いています。そして結果、人目には何かを捨てたように見えることが沢山あります。
私たちも同じように、「クリスチャンとして生きる道を選び取る(選び取り続ける)」ということを、神様との応答の中でし続けます。その一方で、確かに日本人は控え目なところがありますから、「積極的に選び取る」と言うよりも「捨てる」、或いは、時には「諦める」と言う方が性に合っているとも言えるかも知れませんが、やはり信仰の核となるようなことに関しては、はっきりとした、積極的な言葉を使った方が良いのではないかと思います。今、「文化」との関わりでお話を進めていますが、信仰、少なくともキリスト教の信仰生活に於ては、「選び取る」という姿勢は、極めて重要なポイントとなっていますが、それをもしも、いきなり「捨てる」と訳してしまえば、自ずとその言葉の上には、「嫌々」「無理して」「歯を食いしばって」という言葉が載り易くなり、スピリチュアリティー(霊性)を育むのとは、反対の方へ向かいがちになる危険もありましょう。
但し、聖書には実際に「捨てる」という言葉が度々出てきます。だからと言って、短絡的に考え、今直ぐに「捨てる」とい翻訳されている箇所を、全て「選ぶ」とか「選び取る」と訳し直すべきである、ということが言いたいのではありません。
寧ろ、そのように訳されている言葉の中に秘められている福音やスピリチュアリティー(霊性)に直結するような意味をきちんと押さえ、私たちの中に植え付けていかれるように、そして、それを基にしながら行動を起こしていかれるように、或いはまた、そのことに自分自身を深く、より良くコミットさせていかれるようにと、そのために右のようなことを記した次第です。
或いは、「憐れむ」という言葉も、イエス様がなされる時は、必ずと言って良い程、日本語で言う「断腸の思い」、人の苦しみや悲しみを見て取られた時、「自分の胃がキリキリと痛まずにはいられない」といった意味合いと言いましょうか、生き方そのものがあります。
そのように考えてみますと、聖書の本来の意味、イエス様の心の奥底にあるものを、日本語という一つの大切な文化の中で、どう訳し、どう伝えていくか、如何に自分自身の中に根付かせていくかといったことを考え、研究し、整えてていくためにも、文化を学ぶ必要性を思います。それは、勿論申し上げるまでもないことですが、徒に、私たち日本人が好むようにと、何か大切なものを摺り替えたり、歪曲していく作業では、勿論ありません。寧ろ、そのような学びや研究は、如何にして、より正確に神様のみ心を、イエス様のみ心を、私たちの中に根付かせ、開花させていくかへの学びであり、研究であると思います。