私たちが大切に守り続けている「教会暦」は、イエス様の身の上に起こった、たいへん重要な二つの出来事、即ち、ご降誕と甦りを中心にして、そのご生涯を辿るように組み立てられています。その中に「大斎節」というご復活前の期節があります。
大斎節と言えば、極く自然に「克己」「節制」「禁欲」「我慢」等という言葉が頭に浮かんできます。或いは、「修道生活」から連想して「禁欲生活」、つまり「欲を禁ずる」ということを思い浮かべる方々もおられるかも知れません。勿論、ここに羅列した言葉や、それに基づいた在り方も大事であることにはかわりませんが、その方向性や目的を誤って、唯々闇雲に我慢し、耐え忍ぶほうにのみ突き進んでしまうとするなら、それにはやはり限界もあることでしょう。
ところで、聖書や教会の伝統的な教えの中では、果たしてそのようなことを言っているのだろうか?という疑問も、実は一方で私自身の中にありました。だからと言って、既に書きましたように、「克己」「節制」「禁欲」「我慢」等というものを軽視している訳ではありません。しかし、これらもまた、翻訳の一つに数えられますから、念のために基になっている言葉に触れておきますと、「禁欲」の基になっているのは、英語では「EXERCISE」(エクセサイズ)という言葉でした。普通「エクセサイズ」といえば、「運動」と訳すことが多々ありますが、更に英語の基になっているラテン語では、「外へ追い出す」「働くために外へ出す」、或いは、「体を動かす」「訓練に励む」という意味の言葉のようです。
或いは「忍耐」という言葉にしても、「グッと歯を食いしばって耐える」という感じよりも、「あるものの基に留まる」「そこにしっかりと身を置く」というのが元々の意味のようですが、ここでの「何処に」「誰の基に」に付いては、今更くどくどと書き記す必要は無いように思います。
ここでは、文化の一要素である言語・言葉を主として書いていますが、その大事な文化である言葉を、もしも誤って使ってしまったり、安直に使ってしまったりということが起こるとすれば、それはそのまま私たちの信仰やスピリチュアリティー(霊性)、その形成、成長にも影響してくるに違いないと言えましょう。
もし仮にイエス様がスッと現れて、幾つかの訳語をご覧になるか、お聞きになられたなら、「ちょっとそれは?」と言って、首を傾げられるものも随分あるのではという気もします。それだけにこそ、広い範囲にわたっての文化の研究、学びは、教会とその信仰にとっても大きな課題となり続けていくのではないでしょうか。
これはある意味で、私自身の想像の域を出るものではありませんが、イエス様であれば、各々の文化やそれに含まれる様々なものを認められた上で、更に育んでいくべきものは育み、改めていかなければならないものは改めていかれ、省みるべきものは省みられた上で、時には、イエス様の教え・福音と真向から衝突するものもあるでしょうが、それを乗り越えていかれる中で、私たち日本人にも良く分かるような、或いは、心の中にスッと入り込み、染み渡ってくるような働き掛けをなさるのではないでしょうか。神様は、イエス様は、私たちには日本語で、福音や促しを語り掛け続けられることでしょうし、日本という土地や文化の中でも働かれるに違いありません。そして、そういうことの中で、変えてはならないもの、変えていかなければならないものと両者があるでしょう。しかし、多少乱暴な言い方をするなら、唯々欧米のままを頂戴してきた時代は、そろそろ一つの区切りを付けて、改めて私たちの文化をきちんと捉えた上での福音の聴き返し、捉え返しのようなことをしていく時ではないだろうかと思えます。