更にもう一つは、日本の教会へのチャレンジとも言えることですが、それは「霊的成長」「スピリチュアリティー(霊性)を高めていく」ことに通じていくテーマであり、それが今再び与えられているように思えます。
それは、信仰とは知識や認識の問題ではなくて、あくまでも「私(たち)の歩み方」の問題であるということです。しかも、その歩み方とは、「如何に立派で、崇高な人になるか?」を第一のテーマとしたものではなくて、神様に造られ、様々な目に見える、見えない賜物や恵みを戴いているにも拘らず、なかなか十分にはそれに応えていない自分自身というものを、先ずはしっかりと、謙虚に見詰める。そして、そのような欠点や弱点をも込みで、私(たち)を受け容れてくださり、そういう私(たち)の中で働き続けてくださる神様に感謝をしたり、賛美をしたり、懺悔をしたりという動きを取りながら、神様の愛を精一杯受け止めていこう、そして、それに対して応えていこう、自分の方からも何かを捧げていこうという歩み方こそが「信仰」、少なくとも「キリスト教の信仰の歩み」ということであり、それこそが「スピリチュアリティー(霊性)」であり、その成長であると言えるように思えてなりません。
適切な例になるかどうか分かりませんが、例えば車を運転する人はゆったりした姿勢をとり、ゆったりした気持ちでハンドルを握っている時には、自然と良い運転ができるのと同じように、信仰とかスピリチュアリティー(霊性)というものを考えたり、深めていく際にも、余りに固くコチコチになって、ゆとりとかユーモアがすっかり欠け落ちた状態でやっていこうとすると、折角神様から瞬時、瞬時、注ぎ込まれているものに対して、極めて鈍感になっていく危険があるようです。良くない意味で、自分をガッチリとガードしてしまいますから、それが大きな、固い壁のようになってしまうこともあるでしょう。固い、固い煉瓦は水を吸い込みませんけれども、柔らかいスポンジは水を吸い込みます。そこで、スピリチュアリティー(霊性)とか、その成長とは、神様に注ぎ込まれているものに敏感になっていくことであるとも言えます。そして、更にそれは、神様と私(たち)との共同作業でもあるはずです。諸々の賜物や、恵みを、注ぎ込まれる方と、注ぎ込まれる方との共同作業ですけれども、もし仮に、こちら側がそういう動きを止めてしまうなら、その時、その瞬間、日本語での駄じゃれのような言い方になりますが、「霊性」は「零性」「冷性」となってしまう危険性を大いに孕んでいると言えましょう。
では、「スピリチュアリティー(霊性)を高める具体的なやり方があるのだろうか?」という問いも、当然起こってくると思われます。その一つに、「霊操」(SPIRITUAL
EXERCISE)というものがあります。これは、毎日の積み重ねが必要ですので、「ちょっと試しに…」という訳にはまいりませんが、一つ、「このような感じ」ということだけは申し上げられるかも知れません。
例えば、ご復活前の一週間を「聖週」とか「受難週」と言いますが、その中でなされた「最後の晩餐」を、一つ例に取り上げるとすれば、次のように言えるかも知れません。
勿論、私たちに与えられている想像力もふんだんに用いなければなりませんが、「最後の晩餐」の食卓に、自分自身も参加しているとして、そこには、どのような顔ぶれが、どのように位置し、どのような食べ物が並べられ、どのような雰囲気を醸し出しているか。料理は温かいか、冷めているか、自分は何処に座っているか。イエス様の近くか、真正面か、イエス様からは見難い所か。弟子たちは、どのような面持ちで、イエス様と一緒に、最後の食事をしているだろうか。イエス様は、弟子たちに、どのような口調で語られ、どのような眼差しを向けていらしただろうか。そのようなことを臨場感を加えながら、勿論、福音書を根底に置きながらということが大切ですが、想像してみる。それを積み上げたり、繰り返していく中で、少しずつイエス様と相対していくような心の動きとなり、「イエス様と一緒に!」という気持ちが、徐々に高められていくようになります。そして、そういう心の変化と言いますか、イエス様への思いが、更には、いろいろな形での具体的な奉仕の働きや活動へと繋がり始めていくというようなことです。
或いは、別の適当な箇所を挙げれば、十字架に先立ってなされた、総督ピラトの官邸での裁判の場面なども良いかも知れません。
イエス様が裁かれていらした時、自分は一体何処にいただろうか。ピラトは、どのような面持ちをしていただろうか。どんな口調で、話をしていただろうか。自分がイエス様を見捨てたり、裏切ってしまったと痛感した後、どういう行動をとっただろうか。何か言っただろうか。言ったとすれば、何を、どのように言ったであろうか。
このようなことを、先ずは、善し悪しの判断や評価を抜きにして、自分自身や、その心の内に、今置かれている状況や環境の中で起こってきたことを見詰めていきます。
但し、難しいことではありますが、このようなことの中で常に置き去りにしてはならないことがあります。敢えて申し上げる迄も無いかも知れませんが、それは、「神様の視点(視線)」「イエス様の視点(視線)」です。従って、「私はこう考える」「私はこう思う」「私はこんなふうに想像した」ということだけに終始してしまうと、それはかえって大きな落とし穴にもなりかねません。
そして、当然これだけを以て、私たちのスピリチュアリティー(霊性)は、間違いなく最高潮に達するという訳では勿論ありませんが、その大きな一助となっていくには違いありません。
ここで一言「霊操」に付いての一節を書き記しておきたいと思います。
「霊操とは、良心の糾明・黙想・観想・・気付き・口祷と念祷のあらゆる方法を意味する。また、他の霊的修業も意味する。散歩したり歩いたり走ったりするのを体操と言うが、同じように、霊魂を準備し整えるあらゆる方法を霊操と言うのである。その目的は、まず、乱れたあらゆる秩序のない愛着を棄てることであり、自分の生活を整えることについて神のみ旨を探し、確かめることである」「霊操によって、聖霊の動きにもっと心を開き、敏感になることができる。また、心の中にあるさまざまな悪への傾きや、罪の暗闇に光をあてるためのものでもある。さらにまた、神の愛にいっそう忠実に応えられるよう、力づけ支えられるためのものである」「霊操はいつも、祈りである。霊操に入る人にとって、開かれた惜しみない心が特に大切である」(以上、イグナチオ・デ・ロヨラの「霊操」より抜粋)
他方、今度は正反対に、私(たち)のスピリチュアリティー(霊性)を妨げていく、或いは、衰えさせたり、萎えさせたりしていく動きも、一方にあることも加えておきたいと思います。
「極端な」という言葉をその上に付け加えて申し上げたほうが良いかとも思いますが、「(極端な)自己満足」「(極端な)自己陶酔」「(極端な)自己卑下」「(極端な)自己逃避」といったものですが、これらは多分、十中八九私(たち)の霊的成長を妨げるものとして挙げられます。先程の言葉を使って申し上げるなら、これらのものは、私(たち)の「霊性」を、「零性」或いは「冷性」へと行き着かせる、最も手っ取り早いものとも申し上げられるでしょう。