大本営が沖縄守備軍として、第三二軍を設置したのは、一九四四年(昭和一九年)三月二二日のことでした。当初は飛行場の守備隊程度で良いだろうと考えていたのです。
しかしサイパンでの戦いが始まった六月ごろから、大本営は本腰を入れて沖縄守備軍の強化に乗り出したのです。それは、本土防衛の必要からでした。準備不足の本土防衛のための前線地帯として、時間かせぎの役割を担わされただけだったのです。

沖縄は、一五世紀の始めに中山王尚氏によって琉球王国が形成され、中国(明)、朝鮮や日本と東南アジア諸国との中継貿易を活発に行ない、一四世紀から一六世紀までの約三〇〇年間を「沖縄の大交易時代」と呼び、交易相手国の人々からは、「正直で奴隷を買わないし、自分たちの同胞を決して裏切らない優れた人々」と一目も二目も置かれていました。
しかし、一七世紀初頭に、薩摩島津氏が徳川幕府の許可を得て、琉球王国に侵入しました。薩摩は、沖縄の中継貿易を禁止し、独自に中国との貿易のため沖縄を利用し、また、沖縄の貴重な産物である砂糖の大半を、年貢または買上げ品として、薩摩に上納させました。その一方、薩摩は、幕府に対して沖縄が外国であるかのように思わせるため将軍の代替わりの時には慶賀使を、琉球王の代替わりの時には謝恩使を江戸に送らせました。身分制度と差別が徹底していた江戸時代の社会で、沖縄の人々は幕藩体制の枠外にあるものとして差別的に見下されるようになって行きました。
一九世紀になってフランス、アメリカ、イギリスなどが日本の開国を求めた時、彼らは沖縄との交易だけでなく領有までも目指していましたが、幕府は自らに余力がないために沖縄の処理は薩摩に任せ、薩摩も同じ理由から沖縄を守る意志を放棄しました。この時の苦境から沖縄を救ったのは、沖縄の人々でした。欧米諸国の本心を見抜いていた沖縄の人々は、彼らにつけ入れられるスキを与えませんでした。ペリーは、戦闘に備えると共に挑発にもなる測量を実施しましたが、戦闘にまでことを進められないままに沖縄を去りました。

明治政府になっても沖縄差別は繰り返されました。一八七一年(明治四年)廃藩置県が実施されましたが、その翌年に沖縄は琉球藩とされたのです。沖縄を日本の領土として明確にする意味で、沖縄県としたのは一八七九年のことでした。しかし県民に対しては、他府県の人々と同等の資格や権利は与えられませんでした。例えば、一八九〇年(明治二三年)衆議院議員選挙法が実施されましたが、沖縄で実施されたのは一九一二年のことでした。ただ、納税や兵役の義務だけは早くから実施されていたのです。このような差別の中でも最もひどいものは、一九〇三年(明治三六年)に大阪で開催された勧業博覧会で「人類館事件」というのが起こりました。それは、茅葺小屋の前に二人の沖縄の女性が立たされ、説明者が「此奴は、此奴は」とムチで指しながら動物の見世物さながらに沖縄の生活様式を説明したのです。これを見た一人の沖縄県人の新聞への投書により、この見世物は中止となりました。また、就職や、結婚での差別もひどく、「但し、朝鮮人、台湾人、沖縄人はお断わり」との張紙も張られたほどでした。
このような差別の中で沖縄の人々が生きて行くには、「同化」しかありませんでした。
教育勅語は、この「同化」に一役も二役も貢献しました。教育勅語は、一八九〇年(明治二三年)に、忠君愛国の思想を子供達に植え付ける、皇民化教育を目的とするように定められました。沖縄では、本土以上の努力がはらわれました。それは、自分たちも日本人として認めてもらいたいという思いからでした。ですから、天皇の忠良なる臣民として皇国のために尽くす義務を果たすことによって、始めて一人前の日本国民と見なされるための努力がはらわれたのです。このような教育状況を背景として、ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊の悲劇は不可避なことだったのです。
このような沖縄差別の中で、日本軍は沖縄と沖縄の人々を守るという意識ではなく、あくまでも本土決戦を引伸すために、時間稼ぎとして抵抗したのです。沖縄の人々を巻き込んで。
第三二軍の新設により、続々と沖縄に移動してくる部隊によって沖縄は混乱状態に陥りました。兵舎の準備がないため、学校、公民館、公共施設、が接収され、それでも足りず民家に分宿までしなければなりませんでした。また、普段でも豊かではない食糧事情は一層悪化してしまいました。でも、沖縄の人々は、「無敵皇軍が自分たちの島を守ってくれる」という期待をもって軍を見ていましたので、出来ることを精一杯したのです。