一九四四年(昭和一九年)半ばごろから沖縄周辺の海域では、アメリカ軍の潜水艦の活動が活発化し、日本軍の船舶の被害が急増し、兵員や物資の輸送が困難になってきましたしかし日本政府は、沖縄の子供達やお年寄りを九州や台湾に疎開させる閣議決定を行ないました。
沖縄の人々は、海を越えて幼い子供たちを危険な船旅に出すことに不安を感じていましたが仕方ありません。その不安は、八月二二日に現実のものとなりました。八月二一日に那覇港を出港した対馬丸他二隻の疎開船は、二隻の駆逐艦に護衛されながら鹿児島へと向かいました。二二日深夜、悪石島沖にさしかかった時、適潜水艦の攻撃を受け、対馬丸に三発の魚雷が命中し、子供だけでも七五八人、全部で一四八四人が亡くなりました。対馬丸の沈没は、極秘にされましたが、どこからともなく情報は流れ、疎開する人の数は極端に少なくなりました。

一〇月一〇日の早朝からアメリカ軍は、延べ一四〇〇機の爆撃機を五回に分けて沖縄本島上空に飛来させ、九時間にわたる攻撃によって、本島は大打撃を受け、特に、那覇市の九〇パーセントが焼失し、船や倉庫の被害も大きく、食料の被害も深刻となりました。この時点で、沖縄を防衛する海軍力も航空兵力も消失し、沖縄は完全にアメリカ軍の手中に落ちてしまいました。