アメリカ軍の具体的な沖縄本島上陸作戦は、一九四五年三月二三日の艦載機による低空攻撃によつて始められました。それまでは、B爆撃機の空襲だけだったのですが、艦載機による攻撃は、アメリカ軍の機動部隊が沖縄近海に接近している証拠でした。二四日には、本島南部の沖合に大艦隊がおしよせ、艦砲射撃が始まったのです。この艦砲射撃は三ケ月余りにわたって昼夜を分かたず続けられることになるのです。
三月二六日になるとアメリカ軍は、慶良間諸島への上陸を開始しました。それは本島への上陸に先立ち、安全な港を求めてのことでした。この日から沖縄の人々にとって最も辛い日々が始まるのでした。
慶良間諸島に配備されていた日本軍は、海上特攻隊の三個戦隊だけで、その特攻艇も三日間の砲爆撃でほとんど破壊されていました。部隊はなすすべもなく山中に退避するほかありませんでした。アメリカ軍の上陸部隊は、ほとんど無傷で諸島の平地部を占領し、巨大な補給基地を建設したのです。
住民はアメリカ軍を恐れ、パニック状態におちいり、援護を求めて日本軍陣地に殺到しました。しかし、作戦のじゃまになると追い返されました。座間味島では、部隊長の名で「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は忠魂碑前に集合、全員自決せよ」との通達が出され、自決用の手榴弾が配られました。ほかの島も同様でした。逃げ場を失った人々は、山中で、あるいは家庭壕で、家族、親族ぐるみで自決を決行したのです。また日本兵によって多数の住民が殺害されました。
慶良間諸島で集団自決した人の数は、五五三名にのぼるといわれています。この慶良間諸島での集団自決や日本兵による住民殺害は、アメリカ軍上陸第一日目に、沖縄戦の縮図が出現したことになりました。集団自決はこの後、伊江島、中部、南部の各戦線で、日本兵による住民殺害も各地で多発することになるのです。今や、沖縄本島は、空母四〇隻、戦艦二〇隻を中心とする一五〇〇隻に及ぶ艦隊に包囲され、猛烈な艦砲射撃と、一六〇〇機に及ぶ空母塔載機による銃撃、爆撃にさらされたのです。

アメリカ軍の本島への上陸は、四月一日午前八時三〇分に、中部西海岸から開始されました。上陸に先だって、海岸には約一〇万発の砲弾、ロケット弾が撃ち込まれました。これは上陸が激戦になるとの考えからでしたが、上陸に際して日本軍の反撃はほとんどなくその日の午後四時までに六万人のアメリカ兵が上陸を完了したのです。