沖縄戦は、三月二三日から始まり、日本軍の組織的抵抗の終了(六月一九日)、軍司令官牛島満中将の自決(六月二三日)を経て、アメリカ軍の沖縄作戦終了宣言が発表された七月二日をもって一応の集結となりますが、公式に降伏調印式が行なわれたのは九月七日のことでした。
沖縄戦の終戦の日をいつにするかには諸説がありますが、いずれにしましても、南北約一三〇キロメートルの細長い沖縄本島を主戦場にして戦われた戦闘にしては異常な長期戦です。アメリカ軍の掃討作戦が終了した六月末日と考えても、一〇〇日間に及びますし、公式の降伏日までを数えますと半年近くになります。問題は、なぜこのような長期戦になったのかということです。
第一の原因は、沖縄守備軍の作戦方針が「戦略持久戦」に置かれたことです。それは、本土決戦を有利に導くための時間稼ぎの捨て石作戦だったからです。その結果、「鉄の暴風」と形容されるほどの激しい砲爆撃が三か月以上続くことになったのです。
第二の原因は、アメリカ軍にとって沖縄はこのうえない地理的条件を備えていたため、Key stone of pacific(太平洋の要石)として、沖縄を奪取し基地として長期的に確保したかったのです。

このような中で戦闘を続ける日本軍にとって、現地自給の総動員作戦は不可欠なものになって行きました。
一九四五年六月二二日に公布された「国民義勇兵役法」は、本土決戦に備え、「一億玉砕」の合言葉の下に、全国の戦闘参加能力のある男女を軍の指揮下に置くものでありましたが、この国民の根こそぎ動員は既に沖縄で実験済のものだったのです。防衛隊、義勇隊学徒隊などの名目で根こそぎ動員された沖縄県民の「軍民一体の戦闘協力」が、国民義勇兵役法のモデルになったのです。その意味でも、沖縄戦は、本土決戦の実験版だったのです。
沖縄戦と聞くとすぐに「ひめゆり」と連想される程に、ひめゆり学徒隊は有名です。沖縄本島の南部、米須こめすの、ひめゆりの塔が建っているそばの壕は、陸軍病院の第三外科が最後にあった壕で、沖縄戦が終ろうとしていた六月一九日にアメリカ軍の攻撃をうけ、ひめゆり隊の女生徒三五名と教師五名、ほかに看護婦など合わせて約一〇〇名が最期を遂げたところです。この壕にいた女生徒で生き残ったのは僅かに五名でした。
ひめゆり隊はその前日に解散命令を受けて壕から脱出しようとしていたのですが、脱出する前に攻撃を受けたのです。別の壕の女生徒たちの大部分は脱出出来たものの、逃げ場もなく砲火にさらされたり、集団自決をして多くの犠牲を出しました。女生徒を使うだけ使って、最後には彼女たちを戦場に放り出し、アメリカ軍に保護されることも許さなかった軍の勝手さ、降伏を認めず、死を強要する皇民化教育がこの悲劇を生んだのです。
ひめゆり隊とは、沖縄師範学校女子部と県立第一女学校の生徒の隊の名前で、戦後このように呼ばれるようになったのですが、女子学徒隊はこの他にも、五つの高等女学校から動員され、五七%にあたる三三四名もの女学生が犠牲になったのです。
また、男子生徒の下級生は、通信隊員として、上級生は戦闘要員として「鉄血勤皇隊」の名で動員されました。通信隊は、砲火の中を伝令として壕から壕へと飛び回り七〇%にあたる二四七名が戦死するという大きな犠牲を出しました。学徒隊の全犠牲者は、半数以上に及ぶ一二二四名と言われていますが、青年学校の男女生徒の数はいまだに不明で、全体では二千名を越える犠牲者になるといわれています。学徒隊への参加は、法的な根拠がないため、生徒の志願というかたちが取られ、保護者の承認が必要でしたが、学校が勝手に印鑑をつくり書類作成をしたこともあり、事実上、強制参加と同じだったのです。また、生徒たちは、天皇と祖国のために命を捧げることを当然と思うように日頃から徹底して教育されており、学徒隊への参加に疑問をもつこともなかったのです。

先に国内唯一の地上戦と記しましたが、正確には硫黄島でも行なわれています。しかし決定的に異なることは、硫黄島の場合は住民全てが島外に疎開したのに対して、沖縄戦では、住民を巻き込んでの戦いだったことです。また、一般邦人を巻き込んでの戦いは、サイパン、フィリピン、満豪でも見られますが、これらは引き上げの機を逸した結果のことでしたが、老幼婦女子までも戦力化して敵前に送り込んだのは、沖縄をおいて他にはないのです。
戦場における住民は、軍から見れば危険な二面性を持っているのです。それは、戦闘協力者として利用出来る面と、反面、作戦の足手まといになる邪魔物としての存在です。この二つの面が、戦局の状況によって陰陽様々に織りなされたのが、沖縄戦の悲劇の源泉でした。
沖縄では鍾乳洞のことを「ガマ」と呼びます。時には、壕とも呼ばれますが。ガマは南部一帯に特に多く、規模も大きいため、住民だけでなく軍にとっても格好の避難場所でした。戦線が南部に移ると、軍による壕追い出しが頻発します。軍民が雑居した壕では、食料強奪、幼児虐殺、スパイ容疑による住民虐殺などの惨劇が繰り広げられるようになるのです。一方、アメリカ軍はガマの中の日本軍をせん滅するために、火焔放射器、爆雷、黄燐弾などを無差別に穴口から仕掛けたため、多数の住民も、ガマの中で死んで行ったのです。

沖縄戦での戦死者数は正確なところは不明ですが、沖縄県援護課がまとめた推定数だけでも、本土出身兵六万五九〇八名、沖縄出身軍人軍属二万八二二八名、戦闘参加者五万五二四六名、一般住民三万八七五四名、アメリカ軍一万二五二〇名、合計二〇万六五六名となっています。
このうち戦闘参加者とは、援護法の適用を受けた一般住民のことですから、一般住民の犠牲者は九万四〇〇〇名になります。沖縄県出身軍人軍属の中には、学徒隊や防衛隊も含まれていますので、実質的には正規軍と区別しなければなりません。また、マラリア病死、餓死などを含めますと、一般沖縄県民の犠牲者数は、一五万人前後になるだろうと推定されています。当時の県人口約六〇万人のうち実に四人に一人が戦没したことになります。
この一般住民の高い死亡率は何が原因なのでしょうか。疎開の不徹底、激しい無差別砲爆撃、逃げ場のない孤島の地理的条件、食糧不足、医療品不足等々、多くの悪条件が重なってのことでありますが、忘れてならないのは、日本軍の玉砕精神、「生キテ捕囚ノ辱メヲ受ケズ」なのです。
正規軍人を上回る住民犠牲は沖縄に限ったことではありません。いつの場合も、戦場で最大の犠牲を被るのは現地の住民なのです。先の大戦を考える時、中国大陸で、東南アジアで、太平洋諸島で最も多く亡くなったのは、現地の一般住民だったのです。