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受けることの必要とささげることの必要



スチュワードシップにおいて、ささげることの本質に対して二つのとらえ方があります。
ひとつは、教会、隣人あるいはわたしたちのまわりの社会がいま必要としているものをささげることがスチュワードシップだという見方です。
教会の財政の危機を救うために献金の呼びかけがなされたのはこの一例です。
それは「受けることの必要」に応えることです。
必要に応えることこそ主イエスの行為だということができます。
主イエスに近寄って衣にふれた女のように、だれでもキリストに近づこうとするものは許され、またキリストはこのような者の内で働かれると考えることができます。
Questions and Answers About Stewardship,
in Sustaining and Strengthning Stewardship ,
James Kelly , The Liturgical Press, Minnessota ; 1996

一方、スチュワードシップは「受けることのの必要」ではなく、「ささげることの必要」なのだというとらえ方があります。
スチュワードシップが神から受けた恵みに対する応答だという点に注目すると、ささげることは「ささげることの必要」によるのであり、ささげものの大きさは感謝の大きさを表していると考えることができます。
ですから、たとえ教会が巨額の借金をかかえていようと豊かな資産を持っていようと献金の額にかわりがないということがあっても当然だと考えられるわけです。
Receiving and Giving - The Basis, Issues and Implications of Christian Stewardship- Central Board of Finance of the Church of England ed. The General Synod of the Church of England. October ; 1990
この二つのとらえかたは一見矛盾しているようですが、スチュワードシップの別な側面を表しているとも考えられるので、一方が正しく他方が誤りだと言うのは早計ではないかと思います。
むしろ、教会財政の危機のような「受けることの必要」に遭遇したとき、それまで気付かなかった自分の受けている恵みの大きさに気付き、恵みに対する感謝の思いから「ささげることの必要」に思い至るということがあるのではないでしょうか。

また逆に、「ささげることの必要」について学ぶことによって、それまで気付かなかったいろいろなささげ方、たとえば時間や才能や持ち物をささげることができることを知り、そのささげものが周囲の「受けることの必要」を満たすところに神の計画があるのだということに思い至るかもしれません。

欧米のスチュワードシップについての書物やパンフレットなどでは、上の二つのとらえ方の一方だけが強調されているものがあり、必ずしも考え方が統一されていませんが、いずれのとらえ方も聖書の教えに忠実で、それなりに説得力があります。

そこで、スチュワードシップは「受けることの必要」とともに「ささげることの必要」によってうながされる行為だと考えるのが妥当だと思います。


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