「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」(マタイ10:34-35)
これは「平和の君」の口から出る衝撃的な発言。どういう意味?イエスさまは暴力革命を呼びかけておられるのか?もちろん違う。イエスさまは明確な平和主義者だった。彼の教え全体でもこれは見受けられる。捕まえに来た兵士たちからイエスさまを守ろうとした弟子が剣を抜いたとき「しまっておけ」とイエスさまがお命じになった(マタイ26:52)。だからここでの剣は文字通りの意味ではない。しかし、確かにある種の革命の話ではある。イエスさまは約2000年前、世の中がどれほど素晴らしいかを確認するために楽しい世界めぐりをしに来られたのではない。むしろ、正道を踏みはずした世界の真ん中で、天の父の聖なる恵み深いみ心に基づいた「代替社会」(神の国)を構築するために来られたのである。なお、一方では暗闇と自己中心と罪と死の古い社会と、他方では真理と赦しと隣人愛の新しい社会との間に、対立と分裂が必ず必然的に生じる。イエスさまはわたしたちにできる限り対立を避けてほしい。「平和を実現する人々は幸いだ」と宣言なさった(マタイ5:9)。とろこが、対立を避けるという願望よりも、和解を追求するという義務よりも、キリストに忠実であり、神さまが啓示なさった道、生き方に忠実であることへの呼びかけの方が重要なのである。たとえ対立、あざけり、誤解、迫害を招くとしても、たとえ殉教を招くとしても、忠実であることが求められている。真の平和と和解と豊かな命は、十字架を通る道を歩まなければ到達できない。問題なくこの世に承認してもらえる信仰は、イエスさまが示される信仰とは違う。(司祭 ケビン・シーバー)