聖路加国際大学 聖ルカ礼拝堂

今週のメッセージ詳細

今週のメッセージ

TOP > 今週のメッセージ詳細

2021年1月10日(2021/01/08)

「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のようにご自分に降って来るのを、ご覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」(マルコ1:10-11)
先日、聖歌391番(いともとうとき主はあもりて)を歌った後、この「あもりて」が話題になった。ググったら、「あもる」(天降る)は天から下界へ降りるという意味で、天皇が宮殿からお出かけになるときにも使われる単語だと分かった。だから、み子が天の宮殿からわたしたちの下界にお出かけになったということ。しかし、天皇や王や国家元首などが宮殿を出る際、通常、側近に囲まれ、贅沢な交通手段で移動し、あらゆるニーズは迅速に満たされ、すべての動きは見物人に見られる。一方では、子なる神は何人かの羊飼いを除いて全世界に気づかれずにこの世に降りて、寒くて汚い家畜小屋にて裸の弱々しい赤ん坊としてお生まれになった。み子は、わたしたちの人性を完全に共有し、同じ空気を吸って、同じ地面を踏むために、天国で味わえた栄光と力をすべて脇に置かれた。わたしたちの弱さとちっぽけさの奥まで降りて来られた。そしてとうとう、十字架の暗黒の時間に、神から人を引き離すわたしたちの罪深さの奥まで降りて来られた。神がイザヤを通して言われたのはそういうことだった。「主であるわたしはあなたを民の契約として立てた」(イザヤ42:6)。当時、契約は律法に定められ、動物の生け贄に基づくものだった。だから、選ばれた僕についてのこの言葉、「あなたを民の契約として立てた」とは、「罪人を自分と和解させるための生け贄としてあなたを供えたのだ」という意味になる。み子が天の宮殿から降りられたのは、死ぬためだった。しかも、それは自ら進んでお引き受けになった使命だった。最期の晩餐でキリストがその友人たちにパンとぶどう酒を配った時、すべてをご承知の上だった。「皆この杯から飲みなさい。*これ*は罪の赦しを得させるようにと、あなたがたおよび多くの人のために流すわたしの新しい契約の血です」、と。*これ*は、ゲッセマネの園の悲嘆や恐怖から、停止していた心臓が兵士の槍で突き刺されるまでのことを意味する。*これ*は、新しい契約の基礎である。*これ*は、弱くて迷子になった者が天の父の家に帰り、赦され、清められる道となる。*これ*は、神の愛を知らない人のためのともし火であり、この世の偽りに悩まされている人のための知恵であり、罪と絶望に束縛されている人のための自由である。「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために」(イザヤ42:6-7)。み子は自ら進んで死ぬために降りて来られた。御父はみ子を手放すことを躊躇なさらなかっただろうか。「あなたはわたしの愛する子」(マルコ1:11)。人間の父親はわが子を愛し、苦しむのを見ていられない。なおさら、父なる神の愛は宇宙全体を存在させるほど絶大なものだから、み子が自らの命を払うことを条件とする救いの使命を引き受けさせるのはとても辛いことではなかっただろうか。「天が裂けた」という箇所には、神が父親として前に行かさなければならないわが子にもう一度近づこうという切実さを見出せないだろうか。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉には、チアリーダーの応援のエールというよりも、これから先のことを考え、わが子を必死に勇気付けようとしている父の不安を聞こえないだろうか。(司祭 ケビン・シーバー)

今週のメッセージ一覧へ