牧師のひと言2019

本日の福音書から  ルカによる福音書10章25-37節 2019年7月14日
 本日の福音書の物語は、有名な「良きサマリア人」の話です。このお話はマタイ、マルコ、ルカという共観福音書の成立の関係から言えば、マルコにおいて二つの物語(10:17-21、12:28-34)であったものが、一つに組み合わされ、またルカ独自の資料(良きサマリア人の活躍)が加えられて成り立っていると思われます。その意味では、マルコの独自性が失われているのですが、愛を実践することの大切さという事柄が、ルカの物語の中で強調されているのです。
 ルカ福音書は、悔い改めることを強く求める福音書と言えますが、その求めは、すべての人に対して向けられています。そして、その求めの前に、区別や既得権などはありません。ただし、悔い改めだけさえすればよいのかというと、またそうでもありません。それにふさわしい実を結ぶことが大切なのです。この物語でのサマリア人は、悔い改めた人としては描かれていませんが、何がその実であるかを示しています。だからこそ、イエス様は最後に、「行って、あなたも同じようにしなさい」と語っておられるのです。

日の使徒書から ガラテヤの信徒への手紙6章14-18節 2019年7月7日
 本日の使徒書でパウロは、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」と述べています。キリスト者も、ユダヤ教の律法を守るべきかどうか、そのしるしとして、異邦人出身のキリスト者も、割礼をするべきかどうかが問題となっていたからです。パウロは、自分には「割礼を受けていない人々に対する福音が任されている」(2:7)と自覚していましたが、新しい割礼は必要ないと考えていました。それゆえ「(大切なのは)新しい創造」だと述べているのです。この「創造」という言葉は、「被造物」(ロマ書8:22)と訳すことができます。「新しい創造」あるいは「新しい被造物」、これらはとても強い響きを持つ言葉といえますが、もちろん、生物的に何か変わるということではありません。人間のありとあらゆる思い・考えから自由になり、イエス様を通して、霊に導かれて、イエス様を模範として、愛の業を行う人となるということにほかなりません。

 

本日の使徒書から  ガラテヤの信徒への手紙3章23-29節  2019年6月23日
 本日の使徒書に「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」とあります。これはパウロの教会観の一つと言えます。パウロは、教会とは信仰者の集まりであり、そうであるがゆえに、人種、国籍、社会的身分、性差など、あらゆる区分を超える交わりであると主張しているのです。信仰者同士が集められる教会の中で、という制約はありますが、今日の多様性を認めた共生という概念は、すでにパウロの中にあったと言えるのです。その意味では、教会が今日もその事柄の具体化に努めることは、聖書が示す大切な事柄と言えるのです。

 

本日の福音書から  ヨハネによる福音書16章12-15節  2019年6月16日
 本日は、聖霊降臨後第一主日・三位一体主日です。父・子・聖霊が一体であるという「三位一体」の教義は、教会にとって最も大切な教えと言えます。しかし、聖書はそのことを明確に指示しているわけではありません。本日の福音書に、「その方(聖霊)はわたし(イエス様)に栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父(主なる神様)が持っておられるものはすべて、わたし(イエス様)のものである」とあるように、間接的に一つであるように説明されています。
 教会史において昔も今も、三位一体論という神学的説明が様々にあり、それらは理論的にかなりな難解です。しかし、そもそも逆なのです。三位一体を説明することが大切なのではなく、天地創造の初めからおられる主なる神様が、イエス様を通して歴史の中で一回だけなさったことが、今も聖霊を通して世の終わりに向けて継続しているということを、人間が説明しようとすると、三位一体という説明をするしかないということです。そして、三位一体が何を示そうとしているのか、それを一言で言えば、主なる神様の「愛」です。

 

本日の福音書から  ヨハネによる福音書20章19-23節  2019年6月9日
 本日は聖霊降臨日です。聖霊降臨の物語は、使徒言行録のものが有名ですが、福音書としては、ヨハネ福音書の物語になっています。
物語の構造は単純です。イエス様の十字架の死の後、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、家に閉じこもっていました。そこに復活したイエス様が現れ、「あなたたがたに平和があるように」と語るのです。「弟子たちは、主を見て喜んだ」と福音書は告げます。この反応は不自然ですが、そこにヨハネ福音書の主張があります。イエス様がおられれば、どんな恐怖もすぐに喜びへと変わると告げているのです。
イエス様は弟子たちに聖霊を吹きかけます。それは、弟子たち自身、イエス様が共にいてくださる喜びに満たされるためであり、またその喜びを誰かに伝えるためです。ヨハネ福音書が書かれた時代も今も、見える形でイエス様はおられません。だからこそいつも共にいて聖霊を送ってくださっていると信じることが大切です。そこから本当の平和が始まるからです。

 

本日の福音書から  ヨハネによる福音書17章20-26節  2019年6月2日
 本日の福音書に「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」とあります。この部分は、イエス様が天地創造の初めからおられたと考える、ヨハネ福音書の特徴の一つを示しています。わたしたちが信じているイエス様は、すべてがから始まる前から、すべてにおいて、愛の関係の中にあります。わたしたち自身、その愛によって慰めと力を得て、また教会を通してその愛を示したいと思います。

本日の聖書日課から  旧約聖書 ヨエル書2章21-27節  2019年5月26日
 本日の使徒言行録には、ギリシア神話の神々、ゼウスとヘルメスの名前が出てきます。バルナバがゼウス、パウロがヘルメスと思われたという記述です。ゼウスは、ギリシア神話の主神たる全知全能の存在であり、ヘルメスは、ゼウスが神々の伝令をさせるために女神マイアとの間に作った子どもです。神様の格でいえば、ゼウスの方がはるかに上です。聖書の登場人物の外見はよくわかりませんが、使徒言行録の記述を見る限り、パウロよりもバルナバの方が、偉い人物に見えたということなのでしょう。パウロは、コリントの信徒へ手紙二10章10節で、「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいるからです」と書いていますから、間違っていないのかもしれません。

本日の聖書日課から  旧約聖書 レビ記19章1-2、9-18節  2019年5月19日

本日の旧約日課のレビ記に、「あなたたちは聖なる者となりなさい」とあります。理由は、「あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」からです。この時、「聖である」ということは、特別に清くなるあるいは善を高めるということだけではありません。8節以下で、貧しい人への配慮が続いているからです。聖書が進める「聖」という概念は、いろいろな意味がありますが、その一つに、人と人が互いに愛し合い助け合うことがあります。それは、本日の福音書でイエス様が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と教えておられるとおりです。「聖であること」と「互いに愛し合うこと」は、同じなのです。

本日の福音書から   ヨハネによる福音書10章22-30節  2019年5月12日 

本日の福音書で、ユダヤ人たちは、イエス様に「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と問いかけます。イエス様は、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と答えていますが、物語の中で、イエス様は、「わたしはメシアである」とは語っていません。その代わり、「わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている」と語る通り、一つの出来事に前後して、「わたしは~である」という形で、自分自身について答えています。すぐ前の部分では、9章の生まれつき目が不自由な人を癒す物語を受けて、「わたしは羊の門である」(10:7)、「わたしは良い羊飼いである」(10:14)であると語っていました。イエス様の出来事を通して、イエス様の声を聞き分ける人は、メシアという言葉を用いなくても、イエス様がメシアであることを悟るのです。

本日の福音書から  ヨハネによる福音書21章1-14節  2019年5月5日

本日の福音書に「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」とあります。この中にあるイエス様に対する「あなたはどなたですか」という問いは、ヨハネ福音書の中心的な主題・テーマと言えます。逆に言えば、ヨハネ福音書は、イエス様が誰であるかを明確にしようとしているのです。しかし、福音書の中にある答えは、「命のパン」(6:35)、「世の光」(8:12)、「よい羊飼い」(10:11)など様々です。大切なことは、イエス様が、永遠の命を与えてくださる方だと知り、信じることです。そのことの表れとしての、イエス様は誰であるかという答えは、人それぞれ様々でよいのです。そのような答えの多様性は、この地上には多様な人々がいること、そして、その多様性を受け入れながらも、イエス様を通して、一人ひとりを永遠の命へと導こうとされている、主なる神様の愛の表れに他ならないと思います。

本日の福音書から 福音書  ヨハネによる福音書20章19-31節 2019年4月28日

本日の福音書に、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とあります。この部分は、このヨハネ福音書が書かれた目的を明記しています。これは、非常に重要です。聖書には、4つの福音書があり、マタイ、マルコ、ルカは、共通分があり、また文書依存関係もあると思われるので、「共観福音書」と呼ばれます。ヨハネ福音書は、それらとは別に著作・編集された福音書です。共観福音書は、イエス様のご生涯を知るうえで、また歴史的な背景を知る上で、重要視ですが、書かれた目的をヨハネ福音書のようにはっきりと明記していません。
ここにある「命」は、言葉を換えれば、永遠の命ということです。ヨハネ福音書は最後に書かれた福音書ですから、著者は、共観福音書も、そしてパウロ書簡も、また教会の歴史やその時代の出来事も知ったうえで、目的を明白にして、改めて福音書を記したのです。それは、イエス様を信じて永遠の命を受けることです。単純すぎる目的のように思えますが、神様から受けることのできる恵みで、もっとも大切なものは、この永遠の命に他ならないと思います。なぜなら、それを受けた喜びから、真の人と人との和解も平和も、成立するからです。過去も、今も、これからも、人類の最も大切な目的であると思います。

本日の福音書から ルカによる福音書23章1-49節 2019年4月14日

本日の福音書で、イエス様が息を引き取られたとき、百卒長は、「この出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って神を賛美した」とあります。この発言は、マルコ福音書では、「息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」とあり、マタイ福音書では、「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」とあります。ヨハネ福音書には類似する記事はありません。マルコとマタイの新共同訳では同じですが、原文の表現は少し異なっています。「本当に」という部分もルカとは言葉が異なりますので、その違いのニュアンスを出して意訳すれば、「真に、この人間は、神の子だった」(マルコ)、「真に、神の子だった、この人は」となります。同様にルカを訳せば、「本当に、この人間は、正義の人だった」となります。
これらの描写には、イエス様を「正義の人・正しい人」と認識したか、「神の子」と認識したか、また何を見て、その発言をしたか、一人で発言したか、誰と一緒にしたかなど、様々な違いがあります。しかし、共通していることは、イエス様の死の直後、その死刑を指揮した百卒長をはじめとして、その場にいた人々が、イエス様を肯定的に評価しているということです。そして、注目すべき事柄は、その時、周囲の人々に何が伝わったかのかということです。それは、すべての人を最後まで受け入れようとなさる、イエス様の愛に他ならないと思います。そして、その愛は、今もわたしたちと私たちの世界に注がれていると思います。

 

本日の使徒書から フィリピの信徒への手紙3章8-14節 2019年4月7日

本日の箇所に、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」という文言があります。パウロは、それまで積み上げてきた律法学者としての知識も業績も、キリストがもたらす救いに比べれば、価値がないと語っているのです。「塵あくた」を意味する言葉ですが、新約聖書での用例はここのみです(旧約続編のシラ書27章4節に用例がありそこでは「滓(かす)」と訳されています)。この言葉の訳は、新しい訳と岩波訳では「屑」、口語訳では「ふん土」、文語訳では「塵芥」となっています。いずれにしても悪い意味でしかありません。語源的な意味では、「犬に投げてやるような(価値のない)もの」ということのようです。犬は、地中海世界、とりわけ聖書の世界で、きれいな動物とは思われていなかったからです。時代と文化の違いから、翻訳の難しさを感じますが、その時代その時代で、価値のないものを意味する言葉を当てはめれば、よいのかもしれません。ただし、聖書ですから、やはり落ち着くところは、「屑」というところでしょう。

 

本日の福音書から ルカによる福音書15章11-32節 2019年3月31日

本日の福音書は、有名な「放蕩息子のたとえ」です。このたとえは、父の財産の生前贈与を望み、放蕩生活をして身を持ち崩した子どもの一人(弟)が、回心して父親の元に戻ってくる物語です。
このたとえは、ルカ福音書の流れから言えば、連続する三つのたとえの最後になります。一つ目は、「見失って羊のたとえ」(15:1-7)です。99匹と1匹の羊の譬えと言った方が分かりやすいかもしれません。二つ目は、「無くした銀貨の譬え」(15:8-10)です。数の比率が、99対1、9対1、そして1対1と変化することが分かります。そして、それぞれの末尾に、「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(15:7)、「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(15:10)とイエス様のまとめの言葉があります。しかし、最後のたとえのむすびは、イエス様の言葉ではなく、物語の中の父親の言葉、「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」になっています。これは、読む人に、登場人物の父親が語ることによって、父なる神様が、どれほどすべての人々を愛しておられるかを、そして自分の方へ立ち返ってくることを、待ち望んでおられるかを、劇的に示しているのだと思います。

本日の使徒書から コリントの信徒への手紙一10章1-13 2019年3月24日

本日の使徒書に「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」とあります。ここでパウロが想定しているのは、出エジプト記17章1~7節、民数記20章1~13節にある「メリバの水」だと思います。この物語の水は、文字通り飲む水ですが、モーセと民を試みる霊的・信仰的な意味ももっていました。食べ物とときと同じように、パウロは、そこからさらに敷衍させて、信仰を養う霊的な飲み物という意味を引き出しています。旧約聖書には、エジプトを出たモーセの一団に、岩がついて行ったという記述はありません。パウロも「霊的な岩」と述べているので、岩が物理的についていったとは考えていないでしょう。しかし、旧約聖書には、主なる神様の導きがあれば、岩から水が出ていつでもイスラエルを養うという信仰があります(ネヘミヤ9:15、詩編105:41、イザヤ48:21)。初代教会にとっての聖書である、旧約聖書の物語から、イエス・キリストの意味を引き出そうとしていたパウロは、これらの物語に登場する岩を、キリストの予型と考えたのでしょう。

本日の使徒書から フィリピの信徒への手紙3章17-4章1節 2019年3月17日

本日の使徒書に「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」とあります。この「わたしに倣いなさい」という表現は、パウロの特徴です。原語では「共に」という前置詞が一緒になっていますが、前置詞のない形は、パウロがほかの個所でも用いています(一コリ4:16、11:1、エフェソ5:1、一テサ1:6、2:14)。意味することは、物理的動作を真似ることであり、演劇としての物語(ミメーシス)と同じ語源です。
わたしの真似をしなさいと、パウロが勧める理由は、パウロ自身が、イエス様の真似をしているからです。キリスト者としてどう歩んでよいかわからなければ、イエス様の真似をしなさい。そこから歩む道が見つかる。自分もそうしている。パウロはそう教えているのです。簡単なようで難しく、そしてパウロの誠実さが伝わる考え方と言えます。

本日の旧約日課から 申命記26章5-11節 2019年3月10日

本日の旧約日課に、「あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい」とあります。「告白しなさい」は、原文ではどうなのかと見ますと、直訳すると「答えて言う」あるいは「述べて言う」という表現でした。似た動作を重ねて表現するのが、旧約聖書の特徴です。文語訳では「陳(のべ)て言(いう)べし」、口語訳では「述べて言わなければならない」となっていました。新共同訳が意訳したのですが、言うことを求められる表現ですから、意味内容からすれば「告白しなさい」、間違いではありません。新しい訳ではどうかとみてみますと、「こう言いなさい」となっていました。

本日の旧約日課から 出エジプト 34章29-35節 2019年3月3日

本日の旧約日課で、モーセが顔を輝かせながら十戒の板をも持って登場する場面で、「イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。」という箇所があります。この場面を描いた一部の絵画では、モーセの顔から角のようなものが生えているように描かれています。それは、輝くという意味のヘブライ語、KRN(カーラン)が、角をも意味するからです。そもそも、放つ、飛び出ると言う意味も持つことから、どちらでも正解なのですが、モーセから角が出ている姿は、非常にユーモラスです。「この十戒持ってくるの、二回目ですけど」、と角を出して怒っていたようにも思えるからです。

本日の使徒書から コリントの信徒への手紙一15章35-38、42-50節 2019年2月24日

本日の使徒書に、復活についてのパウロの言葉として「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し」という文言があります。わたしたちの教会の多くの方が、この文言から一冊の絵本を思い起こすと思います。そして、本日は、より一層この言葉が真実であることを確認すると思います。この世界での別れは、大変悲しい事柄ですが、それは同時に天国での再会の始まりです。本日は、そのことをご一緒に深く確信したいと思います。

 

本日の使徒書から コリントの信徒への手紙一15章12-20節 2019年2月17日

本日の使徒書でパウロは、復活について説明するためにアダムとキリストを対比させています。そして、死と滅びにいたる生き方と、キリストを復活の初穂とすることによって、復活によって死を克服した生き方を対比させ、コリントの人々に後者を選択するようにと勧めているのです。復活を信じることとは、荒唐無稽の何かをただ信じることでも、自己の究極的願望の成就を望むことでもなく、よりよい生を歩むことに他ならないのです。

 

本日の福音書から ルカによる福音書5章1-11節 2019年2月10日

本日の福音書に「あなたは人間をとる漁師になる」というペトロに対するイエス様の言葉があります。「人間をとる漁師」を直訳すると、「人間を生け捕る者」となります。新しい聖書でも、本文は同じですが、訳注に直訳が記されています。この「生け捕る」という動詞は、新約全体でここのほかは2テモテ2:26の「生け捕りにされて」にしか用いられていません。この表現は、イエス様がペトロを弟子として招く同じ物語、マルコ1:17にある「人間をとる漁師(直訳:人間の漁師)」とも異なります。ルカの著者は、マルコにある「人間の漁師」という少し衝撃が強すぎる部分を、使徒として宣教活動に従事するという意味が伝わるように、表現を変えたのだと思います。とはいうものの、それでも初めて聞いた人は驚く表現です。一番驚いたのは、ペトロ本人かもしれません。
しかし、そのペトロは、聖霊降臨の出来事の後、ユダヤ人たちの前で、立派な説教をします(使徒2:14以下)。ペトロが、自分に向けられたこのイエス様の言葉の意味を真に理解したのは、イエス様が十字架の死と復活の後、聖霊を受けてからである。ルカ福音書からつながる使徒言行録の物語は、そのように告げているのです。

本日の使徒書から コリントの信徒への手紙一12章1-11節 2019年1月20日

本日の使徒書に「イエスは神から見捨てられよ」という文言があります。この中の「神から見捨てられよ」という言葉は、本来の意味では、「上へ」と「置く」という部分からなり、「奉納物、お供え」(ルカ21:5)という肯定的な意味を持ちます。しかし、「呪い、神から見捨てられている」という否定的な意味でも用いられ、新約ではその用例の方が多いのです(ロマ9:3、1コリ16:22、ガラ1:8、9)。「お供え」を意味する言葉が否定的な意味を持つようになったのは、「お供え」する相手が、必ずしも「善なる側」の存在だけではなかったでしょう。新しい訳では、「イエスは呪われよ」となっています。このような表現をパウロが用いているのは、回心する前の教カイン迫害者であったころのパウロの記憶が、関係しているのかもしれません。

 

 

本日の使徒書から 使徒言行録10章34-38節 2019年1月13日

本日の使徒言行録10章38節に、「つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました」とあります。ここでは「油を注ぐ」という動詞が出てきます。これは、ヘブライ語の「油を塗る、メシアにする」という言葉を、ギリシア語に訳すときに用いた、キリストと同じ語幹の言葉です。この言葉は、「手」という言葉と語幹が同じとも考えられます。そこから考えますと、正確な動作としては、油を、「注ぐ」のではなく、「手で塗る」という意味になります。新しい聖書協会共同訳では、「つまり、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました」となっています。それは、「聖霊と力」の与格を「注ぐ・塗る」の手段ではなく、目的ととらえた訳です。