![]()
聖パトリック教会1957年伝道開始
2010年5月16日発行 第216号
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治
聖餐式聖書日課C年は、復活節にヨハネ福音書を読むことが多くあります。聖書日課は、三年周期ですか
ら、四つの福音書の中でヨハネ福音書だけはこのような形で読まれるようになっているからです。このヨハネ
福音書は、日本語で読んでも、原典のギリシア語で読んでも非常に易しい文章で書かれています。しかし、そ
の意味を考えるとなかなか難しいところがあります。それは、ヨハネ福音書が成立する背景に、いろいろな事
柄が関っているからです。キリスト教の土台となったユダヤ教緒派の神学や思想を始めとして、当時の地中海
世界で強い影響力を持っていたヘレニズム文化圏の思想や宗教の影響もあり、実は大変複雑です。しかしヨハ
ネ福音書が書かれた目的は、非常に明快です。最後の部分に「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、
イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである
(20:31)」と書かれている通りです。
さて、ヨハネ福音書の最初といえば、非常に有名な「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であ
った」ですが、次には、「万物は言によって成った」ともあります。これらの部分で、「あった」もの(言、
神と共に、神、命、光)は、「成った」もの(万物、肉体)とのが対照的に記されています。この単純明快な比
較ですが、「あった」ものとは過去から現在まで存在するものを示し、「成った」ものとは歴史の中で生成し
たものを示しています。この部分は、「創世記」の冒頭に似ていると言われていますが、天地創造とは少し意
味が異なっています。天地創造も不思議なお話ではありますが、混沌、闇、光、水、地、草、生き物と創造の
順序があり、一応人間の理解に合うような形で記されています。しかし、ヨハネ福音書の方は、易しい言葉で
書かれていますが、理解が非常に難しい文言です。それは、全ての人間の理解を越えた始まりが造られたこと
を述べられているからだと考えられます。ユダヤ教のある神学者は、ここには別な創造の順序があり、初めと
は、世界の創造に先立つ知恵を示しており、知恵とは言をも意味し、世界は「初めに」=「言の力」によって
創造したのだと述べています。この意味でヨハネ福音書はユダヤ教の天地創造理解と似ているのですが、初め
に「言=知恵」があったとすることが特徴です。またこの言は、過去から今に至るまで「あった」言であると
同時に、また歴史の中で「成る」言でもある。つまり人間とは別に存在し続けるような存在ではなく、歴史に
生きている人間と関わろうとする意志があると語られているのです。この言の在り様が、実は神の在り様と同
じと言ってもよく、その意味で言は神の意思であると同時に、神の本質の現れと考えられるのです。
神の言はその働きとして、天地全てを創造し、その意思を啓示し、イエス・キリストを通して人類を贖い、そ
して全ての人の救いを目標としています。それ故に、この言の中に命があったと述べられているのです。また
人間にとって言は、闇を照らす光であるとも述べられています。この言であり命である光を、ヨハネ福音書の
中で最初に認識し証ししたのは、歴史上に生きたバプテスマのヨハネでした。ヨハネの役割は、光を自分の力
で照らすことではなく、また代理として照らすことでもなく、「証し」にのみに限定されています。そのよう
なヨハネに比較して、光を受入れなかった「世」が語られています。創世記でも「地を照らす光」という記述
がありますが、ヨハネ福音書では、時間と空間を越えて全てを照らす光です。そして単に照らされるかどうか
ではなく、それを受入れる人、受入れない人が存在し、光は照らすと同時に救いと裁きを与えると言われても
いるのです。そしてその光が肉体に宿ったのが、イエス・キリストである。そしてそのイエス・キリストが
「しるし」を通して救いの物語を「栄光」として示し続けているのです。
光に照らされて、救いと裁きとに分けられるというのは厳しいように思えますが、ヨハネ福音書が主張したい
のは、裁きの方ではなく、救いの方です。それは、この「世」がどんなに光を受け入れない存在であったとし
てもイエス・キリストには、「真実と愛」がある。世界がどんなに混乱しても、どんなことがあっても、そこ
に救いがある、そう確信しているからです。教会の様々な交わりと活動の中で、その確信をご一緒に深めてい
きたいと思います。
![]() |