パトリックニュース230号

聖パトリック教会1957年伝道開始
2011年9月25日発行 第230号

イエス様の祈り

牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治

ヨハネによる福音書一七章は、イエス様の祈りが書かれています。このイエス様の祈りは、三つの部分に分か

れています。それはご自身のための祈り、弟子たちのための祈り、そして後の教会の人々のための祈りです。

祈りの主題も三つあります。それは栄光、聖別、一つになることです。

最初にイエス様は、十字架を前にして栄光を現す時が来たと祈ります。その栄光とは、今まで地上での活動を

通して現して来た栄光であり、また天地創造の前からイエス様が持っていた栄光です。十字架は終わりではな

く神の栄光を現す時なのです。次にイエス様は、父なる神様の御名を現したことを語り、その告知に聞き従う

弟子たちを聖別し、守って下さるように祈ります。聖別という言葉は、聖餐式の感謝聖別祷などでも用います

が、聖書においては神の目的の為に何かを別にすることです。イエス様の弟子たちは、その告知に聞き従うが

ゆえに、イエス様の祈りを通して別にされたのです。最後にイエス様は、その弟子たちに聞き従うであろう、

未来の人々のために祈り、またそれらの人々の集まり、すなわち全教会が一つとなるように祈ります。それは

教会に集まる人々のためにそう願うだけではなく、一つとなった教会を見て、世の人々が神の愛を知り、信じ

るようになるためです。

この祈りを通して、イエス様は大切なことを数多く示しています。イエス様は神に栄光を求めていますが、ヘ

ブル語で栄光には「重石とする」、「重要と考える」という意味もあります。栄光を示してくださいと祈って

いるということは、何を重石とするか・重要とするかを示してくださいと祈っていることと同じなのです。何

を重要と考えるか、それは平和、人権、正義など人によって違います。重要と思うもの、求めるものが異なる

がゆえに、人間は一つとなることを妨げられてしまうのです。イエス様は、その祈る姿によって、私たちは、

祈りを通してそれぞれの思いを超えて、何が本当に重要であるかを問わなくてはならないことを示していま

す。この世界で何が重要であるかは、熟慮すること、研究を重ねること、体験を重ねることではなく、祈るこ

とを通してでないと分からないとイエス様は示しているのです。

イエス様は、十字架という試練に際してまず祈られましたが、試練に際して、神との正しい関係が回復される

ことが何よりも大切だからです。祈りを通して神との信頼関係が回復することにより、この世界で何が重要で

あるかを識別する感覚を鋭くされるのです。更にイエス様は、自分・弟子・後の教会のために祈りました。そ

れは祈りという行為が個人の領域を越えて社会に広がることを意味しています。それは個人の事柄も社会の事

柄も、神を中心にしてつながっていなければならないことをも示しています。さらに、イエス様の祈りは、現

在、過去、未来に関わっています。過ぎ去った過去と、未知なる未来と、今生きている現在と関わりは、祈り

を通して何が重要かということを中心にして結び付けられるからです。

3月の大震災から現在まで、多くの祈りが捧げられました。また9月19日に行われた教区フェスティバルで

もたくさんの人々が心をひとつにして祈りを捧げたと思います。しかし、祈ることは、何かを積極的に行動す

ることよりも弱々しく思えてしまう場合があります。確かに、何もしない言い訳として祈りがあってはならな

いと思います。また高度に発達した科学技術に比較すると何とも原始的に思えてしまう場合もあります。しか

し、ここでのイエス様の祈る姿からわかる通りに、祈ることを通して初めて人間は、何が重要であるか、どの

ような行動をすべきかが示されるのです。そして自分の行動・能力の限界を感じたとしても、祈ることを通し


てすべてを神様にゆだねること、あるいは他の人と協力し合うことができるのです。

キリスト者とは何か。祈りと結びつけて答えるとするならば、それは祈る人ということであり、また祈られる

人ということにほかなりません。私たちはイエス様を通して神様に祈り、また誰かに祈られることを通して、

またイエス様から祈られることを通して、神様に支えられているのです。私事ではありますが、8月の入院に

際し数多くの方々の祈りを通してそのことを改めて深く感じました。これからも祈る者でありたいと思いつ

つ、また祈り支えられることに深い感謝を忘れない者でありたいと思います。

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