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聖パトリック教会1957年伝道開始
2013年6月16日発行 第250号
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治
イエス様は、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」
という律法学者、いわゆる有識者の見解を基に取り押さえに来た身内の人々を呼び寄せます。そして「どうし
て、サタンがサタンを追い出せよう」と語りかけ、譬えを用いて反論します。
最初の譬えは、「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない」と
いう譬えです。「国」や「家」が内輪もめをしていては立ち行かないように、人に取りついて苦しめるサタン
も身内で内輪もめをしていては、そのサタン業?が成り立たないということです。この譬えから、サタンにつ
いて面白いことが分かります。私たちは、サタンを分裂や争いの象徴のように思ってしまうのですが、それは
取りついた人にそのようなことを起こさせるのであって、イエス様によれば、サタン同士は、その作業のため
に協力し合っているということです。つまり仲間同士で分裂し合うのは、サタンの思う壺であると同時に、サ
タン以下だということになります。
次は、「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはでき
ない」という譬えです。イエス様の時代も盗人はいたのでこのような譬えが出てきたわけですが、もしイエス
様が悪意から悪霊追放をしているとするならば、当然最初に悪霊の発生源とも言えるサタンと対決してからそ
れをするだろうということです。イエス様とサタンとの対決は、マルコ福音書自体では解決のつく形では記さ
れていません。もちろん、物語を超えて考えれば、最終的にはイエス様がサタンに勝利するのですが、物語の
中でイエス様が悪霊追放をするのは、悪意ではないことはもちろんのこと、単に取りつかれた人を舞台にして
サタンと戦うことでもなく、取りつかれて苦しんでいるその人を救うためにほかなりません。
これらの譬えを語ってから、イエス様は次のように述べます。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やど
んな冒涜の言葉も、すべて赦される。 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負
う」。この言葉には赦しと審きの両方が書かれているのですが、イエス様は最初に、神様が人間の弱さを十分
理解したうえで愛し関わってくださっているということを語っています。それは、人間はその思いや考えによ
って、あるいはサタンに惑わされ、罪を犯し、また神を冒涜することもあるかもしれない。しかし、それらは
すべて神様によって赦されるということです。審きというと、前者の言葉と矛盾するように思えますが、それ
は悪霊追放について、それをサタンによるものと判断し、さらに取り終えさえようとするような行為に関して
語っていると思います。すなわち、イエス様が聖霊を通じて今なさっている業、悪霊を追放し、あるいは病気
を癒す行為を否定することは赦されないということです。但し、イエス様は、こう表現することによって自分
の行為をただ正当化しているという意味ではありません。また単に人を助けたり救ったりする良い行為を否定
するなと語っているわけではなりません。「聖霊を冒涜する」と表現していることに注目しなくてはりませ
ん。
聖霊という存在は、神からそしてイエス様から発する霊であり、それはイエス様への人々の批判材料であった
サタンを源として出てくる悪霊と対極に位置する存在です。それは人間の思いを超えた神の霊にほかなりませ
ん。だからこそ、その存在とその働きを冒涜することは、人間の弱さから神様を忘れたり、神様に不平を言っ
たりするような行為とは異なり、根本から神様の愛を否定することにもつながり、決して赦されないと厳しく
語っているのです。
聖霊の働き、それは人間の思いを超えています。それは人間が利害関係で行うすべての行為、あるいは周囲と
の絆や縁で行う何らかの行為はもちろんのこと、良心に基づいて善悪の判断をして、最善だと思う行為をも超
える働きです。母マリアを心配し、大工の仕事をしないイエス様を取り押さえ来た人々の行為は、人間的には
ある程度理性的根拠があるのかもしれませんが、聖霊に基づく神様の愛の行為を中断させることに他なりませ
ん。たとえどんなに絆が深くても、常識的な判断をしていると言っても、聖霊の導きがなければ、人間は不完
全なので、神に意思に沿うことはできないのです。
イエス様は、人間的な絆や常識を超えて、今救いを必要としている人に目を向けています。その意味では、イ
エス様の宣教の行為そのものが聖霊の働きに他ならなりません。それはイエス様の近くにいた弟子たちも理解
できなかったことでした。しかし、その働きがあるからこそ、イエス様を信じる者は、人間の思いを超えた働
きができるのです。そして、悲しむ人、苦しむ人のいない、神様の愛に満ちた人と人との関わり可能となるの
です。
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