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聖パトリック教会1957年伝道開始
2013年3月17日発行 第247号
牧師 司祭 バルナバ 菅原裕治
安息日に手の萎えた人を癒したイエス様に対して、敵対者たちはイエス様殺害の計画を立てます。それは、イ
エス様の活動が最終的に十字架の死へと向かうものであることを暗示しています。
そのような敵対者たちの計画が明らかになったすぐ後、物語は群衆たちの中でのイエス様の人気についてまと
めの言葉を記します。「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆
が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもお
びただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た」(3:7、8)。この
まとめに出てくる地名は、かなり広範囲であり、また地域名と都市名が混在しています。ガリラヤ、ユダヤ、
エルサレムは有名ですが、イドマヤはユダヤの南にある死海の西南の地域です。ヨルダン川の向こう側とは、
ガリラヤから見て向こう側ですから、イスラエルの東側にあるデカポリス地方などです。ティルスやシドン
は、ガリラヤより北(現在はレバノン)の地中海側の都市です。これらの地域や都市は、東西南北に及び、そ
の間の距離は東西に約100km、南北に約200kmに及びます。当時の移動手段は徒歩ですから(この時代の
一日の成人男性の移動距離は平均30Kmと計算します)、イエス様がガリラヤ湖に移動してすぐこの距離を
人々が集まって来たとは思えませんが、敵対者と対比するように、沢山の群衆たちが様々な地域からイエス様
に従おうとしていたと記しているのです。
群衆がこれほどまでにイエス様のところに集まる理由は、次のように記されています。「イエスが多くの病人
をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった」
(3:10)。つまりイエス様の癒しの力を求めてのことでした。そのような群衆のイエス様理解は、完全に
正しいとは言えません。
さて、イエス様と出会うのは、敵対者と弟子たちや群衆だけではありません。それ以外にも存在しています。
それは、汚れた霊などです。ここでは、「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子
だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた」(3:11、
12)と書いてあります。汚れた霊たちのこの対応は、人間たちとは異なり、イエス様を「神の子」と見抜い
ています。人間たちは、敵対者であれ、群衆であれ、イエス様を正確に理解していませんが、神の敵対者とも
言える汚れた霊たちは、正確に理解していた、そう物語は語っているのです。
このような対比から、自分がメシアであることを人々に隠そうとしている「メシアの秘密」というモチーフが
マルコ福音書にあるとか言われることがあります。また群衆は一度イエス様に従ったが、自分たちの望み通り
のメシアではなかったため、結局敵対者と同じように十字架につけることを求めたというような考えが引き出
されます。これらの理解は、一部分では正しいのですが、マルコ福音書の物語を正確に理解しているとは言え
ません。
イエス様は、自分の力、病気を癒したり、汚れた霊を追放したりする力を頼って来る人を決して拒みはしませ
んでした。しかし、それだけで終わりにするつもりもありませんでした。敵対者たちとの間に真の和解が成立
しなければ、この世界に真の救いをもたらそうとする神の意志に沿うことにはならないからです。そのため物
語の最初の方で示された彼らの自分への殺意を悟りつつも、様々な教えを通して和解する道を歩みつつ、しか
しそれでも和解できないがゆえに、彼らの望む通りに十字架で殺されることを通して彼らを受け入れ、和解へ
の道を示したのでした。
イエス様の十字架には様々な意味があります。すべての人の罪を贖うため、罪の許しのためという意味は、そ
の一つです。しかし、マルコ福音書の物語は、そのような整えられた意味はあまり前面に出てきません。それ
よりも物語に即して語られます。マルコの物語において十字架は、自分に対して殺意を持つ敵対者たちと和解
するための唯一の手段です。また治癒や悪霊によって妨げられた人と人との関係を、神がよしとされる関係へ
と導く道しるべです。さらに、死が終わりではないこと、この世界の命がすべてではないことのしるしです。
イエス様の復活の出来事は、これら十字架の意味の証しなのです。
まもなくイースターを迎えます。私たち一人ひとり、イエス様が十字架の姿を通して、神と人・人と人との真
の和解、真の平和、真の救いをもたらして下さったことを確認し、イエス様が示した復活の命を歩んでいきた
いと思います。
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