礼拝と祈祷と黙想の重要性の再確認
  −神からの召命としての信徒奉事者

 すでに申し上げたとおり、信徒奉事者のつとめも日本聖公会法規に書かれてあるように礼拝中心です。
第六〇条二項に信徒奉事者は、「礼拝において、牧師に協力する」と限定されています。

わたしたちは常に神に召されています。
自分の欲求や個人的関心で好きなように動くのでなく、神に召されているという確信が大事です。

信徒奉事者のアイデンティティは、自分に対して神は何を求めておられるのかという問題に対する応答から始まります。

信徒奉事者でなくても熱心に奉仕する人がありますが、大事なことは神に召されているということです。

自分に対する赦しの恵みへの感謝の応答として関わっていってほしいと思います。
自分の賜物をささげるという意識や責任感が必要です。

 また、それぞれの教会の状況も違うので、会衆に受け入れられる働き、つまり多様なニードに、全部応えることは非常に難しいことです。
ですから、自分の時間とか、能力にしたがってそれぞれに応じた形で奉仕する、つまりひとりひとり異なる多様な賜物に応じた働きが大事なのです。

まず神に召されているということを前提として、自分には何ができるか、自分の関心は何かを自分自身であるいは牧師や信仰の友と語り合いながら考え、決めることが大切です。

 長くなりましたが、信徒奉事者は礼拝奉仕が中心である意味がお分かりいただけたと思います。

礼拝(典礼)のことを「リタジー」といいます。
この言葉は「信徒」とか「人間」という意味の「レイトス(leitos)」という言葉と「エルゴン(ergon )」という「業」とか「働き」という言葉の合成されたものです。
(leitos+ergon →leitourgia→liturgy )。

共同体の人びと全員の「みんなの仕事」ということになります。その中でも信徒奉事者は特に召されて、その「みんなの仕事」が適切に執行できるように積極的に奉仕し、牧師を助けるのがつとめです。
そのように召されたつとめを自分の関心、能力に応じて行うのです。

信徒奉事者は、基本的に、祈祷書が使える、つまり朝の祈りとか、夕の礼拝とか、詩篇などが祈祷書の何頁に、どこにどういう祈りがあるか、どういう時に使うかということが分かっていることが必要です。

また、祈り、自由祈祷など求めに応じて実行できることが必要かもしれません。
これには訓練が必要となります。

また自分で語るよりも、他人の言うことを聴くことができたりすることなどが必要です。
困難な境遇にある人を、具体的には援助することはできなくても、神の助けを祈りながら見守ること、こういうことを執行するためにも自分自身の祈りの生活が大事になります。

神のみに寄り頼むことです。

また聖書を良く読み、自己訓練をしてください。
神から与えられる賜物はそれぞれ異なりますが、神の恵みによって今の自分があり、生きているという信仰によって、神に召されたこのつとめは可能となるのです。