2 新約聖書の「教役者」と使徒のつとめ

 新約聖書には教会のそういう多様な職務の中に司祭という言葉がないということに注目しなければなりません。

「司祭」もやはり初期に出てきた言葉です。

ヘブライ人への手紙ではキリストが「肉の掟の律法によらない、メルキゼデクに等しい大祭司」であったと、キリストご自身が祭司であったことが書かれてあります。

それからペテロ第一の手紙の中には「あなたたちは祭司の民」とあるように、教会全体が祭司の共同体であることが書かれてあります。

しかし新約聖書では教会の役職が祭司とか司祭とは言われていないばかりか、むしろそう呼ぶことを避けていたような印象です。

その他ユダヤ教の祭司とか異教の祭司という言葉は使われています。

ですから司祭という言葉は、どういう背景、どういう脈絡で使われているかがはっきりしないと、その意味を明確にするのはなかなか難しいのです。

今の女性司祭按手の問題でもはっきり定義せず、司祭の意味について共通理解をしないで議論している傾向があるようです。

 このように、三聖職位とは次第に歴史の中でできてきたもので、ごく初期は多様な職務で、ある人は使徒で、ある人は福音宣教者、ある人は預言者、牧師等々…と呼ばれる奉仕者はいましたが、新約聖書では教会に公認の奉仕職としての「司祭(祭司)ヒエレウス」は出てこないのです。

新約時代の教会は働き方が多様なのです。さまざまなあり方で働いていたようです。

わたくしは、このごく初期の教会の在り方から信徒奉事者の在り方を学んでいかなければならないと思います。

現代の教会も多様なニードがあり、多様な問題意識を持っておりますし、多様な関心があります。それに応じて多様な働き方が求められているのです。

最後にもまた話しますが、その事から教会に聖職信徒を問わず多様な仕事が求められているのです。初代教会の人たちの多様な奉仕の仕事が、歴史的にどういうことになっていったかを理解していかなければなりません。

 教会の職務の中心は使徒職です。新約聖書でいう十二使徒を規範にしたつとめです。
聖公会でよく使徒の権威とか教えを継承すると言います。
いわゆる『使徒継承』です。聖書を読めば、使徒そのものは継承されるような職務ではなかったのです。

使徒というのはいわゆる『十二使徒』なのです。

使徒たちは今でも天において、イスラエルの十二の部族を治めているのです(ルカ二二:三〇)。
十二使徒は、今も天でわたくしたちを支配している使徒です。天国においても使徒なのです。だから後継者は必要ありません。

ただ一人イスカリオテのユダだけはイエスを裏切って使徒のつとめを果たせなかったので、「このつとめは、ほかの人が引き受けるがよい」ということで、マティアが継いだのです(使徒言行録一:二〇)。

ほかの使徒には後継者はいません。

使徒ヤコブは最初に殉教したことが使徒言行録に出てきますが(十二章)、死んでもユダのようにあとを継ぐことは何も書いていないのです。

殉教したら、それはもう使徒のつとめを果たして神様の栄光の下に入るわけです。

黙示録にも、新しい天のエルサレムの城壁に十二使徒の名前が刻まれ永遠に残されているのです(黙示録二一:十四)。

そういうことで今でも十二使徒は教会の基礎になっています。

 しかし、それでも教会は別の意味で十二使徒のあとを継いでいるのです。どういう形で使徒の職務を継承しているか。

ひとつは使徒の宣教の仕事です。

教会が神から遣わされたものとして、使徒的な在り方(遣わされた者)の役割を受け継いでおり、使徒の教え、使徒の宣教を継承しています。

使徒言行録の第六章に、教会でユダヤ言葉とギリシャ言葉の人たちの対立があった時に、使徒たちが、「わたくしたちはもっぱら神の言葉に仕える。そして食卓に仕える仕事は霊に満ちたこの人たちを選ぼう」と言ってステパノやフィリポなど七人を按手します。

これが執事の起源と言われています。

これは使徒たちの意図でできたわけで、こういう形で使徒の意図が教会に受け継がれてきているのです。

使徒的継承が、使徒の支配的権威の継承と理解されるようになるのは、もう少し後世になってからだと思います。

使徒のつとめの本質は神のしもべになること、「仕える」ということです(マルコ十:四二以下)。