6 最近の信徒奉仕職の傾向
    −宣教への奉仕のための信徒と聖職の協働

 さらに二〇世紀の後半になりますと、ことに一九七〇年代以降は、教会における信徒の地位が大きく変化しました。
神の民の共同体の意識が強められたからです。

教会は神の民の集会であり、この世界の人びとのために神の愛を証しし、奉仕する使命をになうという認識が強まりました。

聖職も信徒もその使命(宣教)の遂行のために協働するのです。
 イエスは「群衆」と共に生き、彼らの救いのために命を捧げたのです。

福音書でいう「群衆」とはハンセン病の人、取税人、神殿宗教から疎外されていた人びと、罪人といわれて抑圧され差別されていた人たちです。
「群衆」に深い憐れみをもって働くイエスの宣教に奉仕していたのは「弟子」たちでした。

イエスと弟子の共同体は「群衆」の解放という使命(ミッション)をになっていたのです。

決して閉鎖的な宗教集団ではありませんでした。
このことは今の教会の在り方、ことに教役者とか信徒奉事者の役割を考えるために重要な意味を持っています。

教会を巡る世界の人びとに仕えるためにわたしたちは弟子になり、そして群衆に仕えるのです。
教会は社会と切り離されたところにあるものではなく、教会はこの社会に生きている群衆に仕えるために遣わされたという意味でイエスと使徒の後継者なのです。

現代世界の人びとのニードはさまざまですから、多様な人びとに教会は関わらなければならなくなります。

教会の宣教の働きも多様になっていきます。



 今世紀後半から教会が宣教(ミッション)ということを強調してきたのはこのような背景があるからです。
教会は自らのために存在するのではなく、世界に対して、ことに世界で抑圧されているいわば「群衆」への奉仕という使命があることに気づいたためです。

イエス・キリストの使命は群衆の解放のためこの世に来られたところにあります。
弟子はそのイエス・キリストの使命(ミッション)に奉仕するために呼び出され、選ばれたのです。

 しかし、現代社会で「群衆」の存在に気づき、様々な「群衆」のニーズに答える働きは容易ではありません。

常に現代社会において神の愛がどこに働いているか、神の愛とは何か、イエス・キリストの働きや十字架と復活についていつも聖書を学んで黙想し、礼拝とサクラメントに関わって神の愛の出来事を想起していなければなりません。

ただ自分の主観や個人的な関心や感傷で主の愛を理解したり、「群衆」の苦難に同情するだけでは神の愛の業に奉仕していることにはなりません。
わたしたちは常に聖書を読み直して、自分が宣教への奉仕とみなして働いていることを繰り返し吟味し直す必要があります。

いわばわたしたち自身、宣教と思って自分ではよいことを実践していると考えていることを、み言葉によって審かれ、刷新される必要があるのです。
そうでないと、わたしたちも弟子たちのように、誰がいちばん偉いか議論する自己正当化や自己満足に陥ります(マルコ九:三四、十:三五以下など)。

あるいは、現代世界でますますひどくなる不正や「群衆」の貧困と悲惨の現実を見て、自分たちの能力で何ができるのか、何もできないのではないか(「これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか」マタイ十五:三三)という悲観論に陥ってしまいます。

自己満足も悲観論も乗り越えて、感謝と希望をもって弟子として奉仕するために、わたしたち自身が神の恵みを繰り返し確認しなければなりません。
宣教に奉仕するためにはみ言葉の黙想と礼拝が不可欠なのです。教会は、み言葉と礼拝が中心であることを、あらためて強調しなければなりません。